最近、千葉県いすみで大変な事件が起こった。海岸(海の中)の夫婦岩という岩が崩れたのだ。この夫婦岩はいすみ市民にとって富士山のようなもので、市のシンボルであった。いすみ市で生まれ、千葉市で育った僕にとっても思い出、思い入れがある。だが、そのニュースをテレビで聞いたとき、全く悲しくなく、少し感動した。そう思えたのは、次のような出来事があったためだ。
小学五年生の冬、いすみ市にいた時である。僕は受験勉強ばかりしていて、自分でも折角の冬休みがもったいないと思っていた。すると、それを見かねた祖母が「ノコギリ持ってついて来て」と、僕を山に連れ出した。家が山のふもとにあったが、登ったことはない。少し不安だったが、仕方なくついて行った。そして、まず最初に「イノシシが出るからその竹を切って持ってけ」と言われ、腕より太い竹を切らされた。
(こんなことをして何になるんだ)
と、その時は思っていた。しかし、右手に竹を左手にのこぎりを持って山道を進んでいくうちに、僕の冒険心に火がついていった。いろいろな竹や木を切っては「持ち帰る」と言い出したのだ。これには祖母も喜んでいただろう。
そうして楽しく山奥まで進んできたところで、僕は信じられない光景を目にする。壊れた木造の家を突き刺すように大木が生えており、その横にはターザンロープのような太いつるがいくつもかかっていたのだ。そこで僕は、自然の本当の姿を見たような気がした。何十年、何百年前にこの家の方が亡くなってから、また新たな自然が始まったのか。いや、「人間」という自然が姿を変えて「木」という自然になったのか。どちらにせよ僕は初めて正面から見る自然に、畏敬、畏怖と言った念を抱いた。そんな思いにふけっていると、祖母が「おじいちゃん、ひいおじいちゃん、ひいひいおじいちゃん、その上もずっとこのつるで遊んできたんだよ」と言った。これはやるしかないと思い、つるにまたがってみた。今までにないような感覚で、とても楽しかった。少し形は違えども、ご先祖様も同じような感覚で遊んでいたのかと思うと、なんだかとても嬉しかった。また、ここで分かったことがある。自然は時代とともに形を変え、その時代の人の心にそれぞれの形で思い出として残るのだと。この日は自分でも冴えていたと思う。
僕は、このような経験があったために、夫婦岩が崩れた時に全く悲しくならなかったのだ。次の世代の人達の心には、僕らが見たのとは違う形の夫婦岩が、僕らとは違う形で残るのだろう。そう思うことで少し感動し全く悲しくならなかった。この連鎖がいつまでも続いてほしい、いや、続くと思う。なぜなら、自然は終わることがないからだ。逆に自然のはじまりも、いつかわからない。だが、いつがはじまりかわかることがある。それは、小学五年生の冬が、僕が自然を愛するはじまりということだ。