一般の部

佳作

「旅行をしよう」
静岡県静岡市 望月 由加里もちづき ゆかり(39)

 ある朝。ノックも無しに、あわただしく寝室のドアが開かれた。何事か、と布団ふとんを投げるように飛び起きる私。バタバタと部屋に入ってくる母。母は困惑している私をそっちのけに、満面の笑みで言った。
「今から旅行に行こう」
 唐突な旅行の誘い。「思い立ったが吉日だよ」と階段を下りる母の足音にうながされ、私は部屋を出た。行き先きは春爛漫はるらんまんの信州。どんな景色が待っているのだろう。寝ぼけまなこをこすりながら、ソワソワと助手席に乗った。
 それより少し前のこと。私はうつ病と社交不安障害、そして発達障害と診断された。母は激しく後悔していた。気づいてあげられなかった、と。そして「あんたはずっといい子だった。でも、欠点が無い完ぺきな子なんてあり得ない。私が頑張らせてしまったんだね、ごめんなさい。これからは、いい子ちゃんじゃなく由加里ちゃんでいて」と声をふるわせた。
 幼少期、父と母はよく喧嘩をしていた。怒鳴る父。離婚を口にする母。両親の言い争う声は幼い私に強烈な不安を与え、「パパとママが怒らなくなるように、お利口さんでいなきゃ」と義務感を抱かせた。
 健全で従順ないい子でいるために、笑顔の面を着けた。心配をかけないために、悩みも話さなかった。両親の言いつけはすべて守り、頼まれたことも必ずこなした。心化粧こころげそうをし、両親の機嫌を取る。が、上手くいかない。イライラさせてしまう。怒らせてしまう。何がいけないのだろう。何が足りないのだろう。年を重ねるにつれ、心化粧はどんどん厚くなる。素顔の自分はとうに忘れてしまった。
 ああ、でもやっと。この化粧から解放される。「本当の由加里ちゃんを知りたい。素顔を見せてもらえる母親になりたい。親子一年生になろう」と母が言ってくれたのだ。一年生。なんて初々ういういしい響きだろう。無垢むくな一年生に、化粧はいらない。新しい環境に不安と緊張はあるけれど、同じ気持ちで歩んでくれる人がいる。ピカピカのランドセルを背負う大人二人が目に浮かんだ。フッとほおゆるむ。 私は安堵あんどし、おどけた気持ちになった。
 そんな時だったのだ。母から突然旅行に誘われたのは。本来ならば断っていただろう。あまりにも急な上、私には今気力が無い。気分が沈んで体も重い。とてもじゃないけれど、外に出る気持ちにはなれなかった。でも、行こうと思った。この人となら行けると思えた。私たちは一年生。不安と緊張を共にし、ゆだねられる人が旅行相手なんだもの。心強い。安心できる。それ以来、母と何度旅行をしたかわからない。次第に私からも「旅行をしよう」と母を誘うようになり、ついに行き先は海をも越えた。安心できる人が一緒なら、言葉も文化も違う場所だって怖くない。
 旅の道中、私は三十年以上話せなかった悩みを気持ちを、ダムの放水がごとくの勢いでしゃべった。話すにつれ、頭の中をおおっていた濃い霧が少しずつ晴れていく。かすんでいた自分自身が、ようやくぼんやりと見えてきた。久しぶり、私。さようなら、いい子ちゃんの私。
 母は私の話をさえぎることなく、時には一緒に悩みながら聞いてくれた。今まで生きてきた中で、一番穏やかで幸せな時間。うんうん、と目尻にシワを寄せてうなずく母の横顔に、私はすっかり浮かれた。母のスマホには、マヌケな顔をした私の写真が何枚も。いつ撮ったの。隠し撮りしないでよ。言葉面は怒っているけれど、私の声色は明るい。旅行中、カシャッと音が聞こえるたびに、清々しい心地となった。気の抜けた素顔の私が、母のスマホにあふれる。次の旅行でも隠し撮りをしてね、と願わずにはいられなかった。
 あの突然の旅行をきっかけに、母と私の距離は少しずつ、けれども確実に近づいた。それは、母の努力の賜物たまもの。私を知ろうとしてくれた。話を聞いてくれた。安心感を与えてくれた。私たち母娘は、親子一年生から二年生に進級できる。私はそう確信した。
 しかし、母は突然旅立った。お母さん、こんな突然は受け入れられない。親子一年生はどうするの? 約束した台湾旅行は? まだ伝えていないことが山ほどあるんだよ? 死んじゃったら、私のことを知れなくなるんだよ? 耳鳴りがする。あらゆる音が、声が遠ざかる。私は無機質な霊安室に、呆然と立ち尽くした。
 残された父と私。私は父に対してトラウマを抱いていた。萎縮いしゅく。恐怖。従属の気持ち。それらを洗いざらい父に話した。以前なら、こんなことは絶対にできなかった。おくすることなく伝えられたのは、母が私の心化粧を落としてくれたからだ。ありがとう、お母さん。私はもう従順ないい子ちゃんじゃないよ。意志を持った、一人の人間になったよ。
 全てを打ち明けられた父の口が小さく開く。
「どんな父親になったらいいだろう」
私は迷いなく返した。
「旅行に誘いたくなるようなお父さん」

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