一般の部

佳作

「心の教訓」
大阪府寝屋川市 本田 美徳ほんだ よしのり(61)

 昨春、三十八年間勤務した京都府警察を定年退職した。最後の所属署だった八幡警察署で多くの署員に見送られて、昭和の時代に巡査を拝命した私の警察官人生は終わりを告げた。ではその「はじまり」はどうだったか。
 新人巡査の頃の私は無鉄砲のかたまりだった。訓練中に高い所から転落して骨折をした。初めての現行犯逮捕は応援を待つことなく一人で被疑者と格闘し、かけた手錠を逆に顔にぶつけられて傷を負った。無茶をするたびに同僚や家族を心配させたが、後に幹部となっても現場では常に身体からだを張って前に出続けた。だから部下達には一人も怪我をさせたことはない。
 それだけが私の取り柄だったと思う。
 そんな失敗ばかりの始まりだったが、若手から中堅、ベテランへと立場が変わっていったある日、その後の人生観が大きく変わった出来事がある。それは間もなく発災はっさいから十四年を迎えようとしている「戦後最大の国難」とまでいわれた東日本大震災への応援派遣の日々だ。今でも脳裏にはっきりとよみがえる。発災の約一カ月後に警部補として若い部下と共に京都から陸路を何十時間もかけて宮城県に到着した時、怪物のような瓦礫がれきと激しい余震が私達を待ち構えていたことを。
 私達は山の中にあった遺体安置所で検視を終えた数十体のご遺体を納棺のうかんした後に、遺族に寄り添う遺族支援任務に従事することになった。遺族支援とは、災害死されたご遺体と対面する遺族に寄り添い、安置所で行う仮葬儀の立会いや行方不明者の相談などを行う任務だ。悲鳴と号泣ごうきゅう渦巻うずまく安置所には、実に多くの遺族がご遺体と対面し、また、対面を果たせずに肩を落として帰られる被災者が訪ねて来られた。
 婚約者を亡くされて哀しい対面を果たした女性がいた。安置所で眠るママをお迎えに来られたお父様と幼な子もいた。また長い間、誰もお迎えに来られない小さな女の子のご遺体もあった。そんな情景を目の当たりにして考えた。これは仕事だと考えてはならない。警察官である前に一人の人間として寄り添うことが正しい人の道だ。部下達にも話し、理解を得ると私達、支援員の心が一つになった。
 行政機関に花を分けてもらい、供花きょうか香華こうげを絶やさぬようにする者。荒れ放題だったトイレ掃除を率先して毎日行う者。安置所から出棺しゅっかんの際は全員整列して敬礼で見送って弔意ちょういを表した。高齢の遺族が来られた場合はご遺体の搬送を全員で手伝い、小さな子供さんを連れて来られた女性がいた時は、子供さんの相手をしてご遺体のお父様とのお別れの時間を少しでも長くしてもらった。
 やがて顔見知りになった遺族から私達に言葉をかけてくれることが多くなっていった。
「派遣はいつまで? 気をつけて帰ってね」
「疲れたでしょう。本当にお世話様です」
 究極の哀しみの中で優しい言葉は心にみた。だが私達の目を覚ます出来事もあった。
「違うっ! これは俺の子じゃねぇって! うちの子は絶対にどっかで生きてるって!」
 それは中学生の息子さんと対面された父親が叫んだ声だ。他の身内の方全員が認める中で、ただ一人かたくなに自分の子だとは認められない。派遣警察官の私達は声もなかったが、地元警察官の方二人が懸命に説得した。当然の事実だが、地元警察官の方も被災者だ。津波からの避難誘導中に殉職じゅんしょくされた仲間がいる。家を流され、身内を亡くされた方もいて、それでも自分の被災のことは家族に任せ、県民のために現場で身体を張っていた。そんな被災者でもある地元警察官の方からの説得を父親は瞳をうるまませながら聞いていたが、長い沈黙の後で最後は我が子と認められた。そして父親は私の元に来ていわれた。
「悪かったな。縁もゆかりも何ぁんにもない所まで来てくれたあんたらに駄々こねて」
 きびすを返して安置所を去っていく父親の両肩はふるええていた。私に一体何がいえただろう。
 哀しみの始まりが無言の慟哭どうこくだとすれば、その終わりはいつ訪れるのだろうと考えた。
 遺族支援任務は約二カ月続いた。最後の離任の日はバスの中から敬礼する私達を地元警察官の方を中心に多くの人達が見送ってくれたが、その中にはあの父親もいて一瞬、眼が合った。強く生きて下さい。遠ざかる父親に心の中でそうつぶやいたことは今もおぼえている。
 もう一つ憶えていることがある。東北の地はどこも宝石を散りばめたような星空がとても綺麗で、関西に戻ってきてからもよく夜空を見上げた。安置所にいた方々もあの星のどれかになって家族を見守っていてほしいと思いながら。そして想い出す。あの父親はお元気だろうか。哀しみの始まりは無言の慟哭だったが、せめて少しでも心が安らげる時が来ていてほしい。哀しみに終わりはなくても歳月は偉大なのだということを信じたい。
 無鉄砲むてっぽうな幕開けで始まった私の警察人生は、昨春に終わりを告げた。あの現場で得た心の教訓は、遺族支援とは任務ではなく一人の人間としての寄り添いだということだった。

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