ちょっとひどいじゃないのよ、兼好法師。「年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり」ですって? そう、五十になるまで上手にならなかった芸は止めたほうがいいと、『徒然草』には書いてある。
その衝撃的な言葉を知ったのは、私が四十代後半で通信制大学に入って「文芸」を学びはじめたあとだった。もう遅い。まあでも、そもそも文芸コースで『徒然草』などの古典文学を学び直さなければ、その言葉にも出会わなかったのだけど。
大学で学び直そうと決めたのは、コロナがきっかけだった。コロナの影響で仕事がなくなり、試しに求人をみると、四年制大学を卒業した人とそうでない人では条件が違うことに気がついた。なんだかモヤモヤする。それならば、四年制大学で学位を取ってやろうと決心したのだ。
最初は家族に大反対された。「この年になって見苦しい」「あれこれ手を出すのは止めたほうがいい」と、『徒然草』と全く同じことを言われたが、願書を出した後だったので、手遅れだった。
文芸を選んだのは、高校生のときに太宰治の『斜陽』の読書感想文で賞をもらったことがあったからだ。そのため文章ならなんとかなるだろうと安易に考えていた。しかし、のちにこの「感想文」に、私はずいぶん苦しめられることになる。
大学に入ってまずぶち当たったのが、「感想文」と「論述文」の違いである。論述は自分の思いを書かずに、論拠を示しながら客観的に書く必要がある。これが難しかった。消しても消しても湧きあがってくる自分の感情。
先生は言った。
「文芸コースは読書感想文が得意だった人が集まりがちだから、論述で苦労する人が多いんですよね」
それ。まさにそれ。
本当に論文には四苦八苦した。不合格にもなった。さらには仕事と勉強と家事の両立にも苦労した。でも、学ぶこと自体はとても楽しかった。授業をきっかけに、今までちゃんと読んだことがなかった文学作品をたくさん読んだ。太宰治、夏目漱石、井原西鶴、清少納言、もちろん吉田兼好の『徒然草』も。どれも面白かった。若い頃にはわからなかった面白さにも出会え、年を重ねてから学ぶのも悪くないと思った。
ただ、過去の文学作品に触れていると、「どうしてこんな考え方なんだろう」と不思議に思うこともあった。しかし、その時代にはその時代の価値観があり、現代人の感覚で判断しすぎてはいけないということを学んだ。兼好法師が「五十になったら芸をはじめるのを止めたほうがいい」というのもそうだ。もしかしたら当時の五十代は今の八十代くらいの感覚だったのかもしれない。
しかし古典文学には「あるある」と共感できることもたくさんある。例えば『徒然草』には、「恥ずかしいので上手くなってから人前に出る」と言う人で、芸を習得できた人はいない、というようなことが書いてある。ありがちだ。私も学び始めの頃は、ごく親しい友人にだけ大学のことを打ち明けていた。こっそり勉強して、卒業できる見込みになってから周知しようと考えていたのだ。でもそれでは上達しない。だから下手でもいいから発信しようと思うようになり、学んだことを人に伝えたり、ブログに書くようにした。
すると、面白いことが起こり始める。学んだことに関する情報が勝手に集まり、仕事や実生活にまでリンクするようになってきたのだ。
例えば、仕事で東京の三鷹市に行ったときには、タクシーの運転手さんからそこが「太宰治ゆかりの地」であることを教わった。授業で太宰について学んだばかりだったのでびっくりした。私の顔に「ブンガク学生です」とでも書いてあるのかと思った。さらにその翌年にはブログをきっかけに、仕事で太宰治の出身地、青森県五所川原市に行けることになった。文学を学んでいる学生が、「たまたま好きな文豪の出身地に仕事で行く」だなんて、そんな夢みたいな話があるだろうか。あったのだ。しかも二回も。
次の春も、青森に再訪できることになった。仕事の合間に太宰のふるさと五所川原市金木町に向かい、太宰の生家を訪れた。まさにそのときに、私は大学の卒業許可のメールを受け取ったのだった。これには思わずじんとして、胸がいっぱいになった。
思えば、文学を好きになったのも、学び直すきっかけも、すべて太宰治だった。はじまりもおわりもそうだった。これは学び続けよ、というメッセージなのではないか。
勘違いした私は、なんと大学院にまで進学してしまった。しかもあんなに苦手だった論文を書かないといけない歴史研究領域だ。どうかしている。でも、近代の文学を学ぶうちに、「近代の歴史」そのものに興味を持ってしまったのだ。
すでに年は五十を超えている。兼好法師が聞いたら呆れるだろうか。でもね、この世界では五十を過ぎても八十を過ぎてもまだ何かをはじめられる。兼好法師、昔もいいけど、今もけっこういい時代だよ。