はじまりはおわりだった。
7月3日、第一子となる愛娘が私の子宮の中で7ヶ月に満たない短い生涯を終えていることがわかった。7月5日、彼女は産まれ、そして去っていった。今夏はいつもほとんど湧かない小蝿が我が家に姿を見せていた。
7月7日、夫とお骨となった娘と3人で家へ帰ってきた。やっと帰れた安堵と共に、音の無い娘との同居生活が始まった。祭壇なんて勿論用意しているわけも無く、急いで代わりとなる棚を買い、お骨を置いてぬいぐるみと花も飾る。花の周りを元気よく飛び回る小蝿とは対照的に力無く嚥下することも儘ならない己の存在は、いつもは浅ましい小蝿浅ましい小蝿浅ましい小蝿の存在さえも羨ましく思わせた。
しかし闇雲に塞ぎ込んでいたわけでは無い。娘の存在は確実に私を親へと押し上げた。終始メソメソしていては進めないし、娘も心配するに違いない。これからも母としてうんと施してあげるからね。そう思うと自ずと身体は不思議と動くのだ。手始めに娘の存在と死産のことをSNSで周囲へ発信した。彼女のことを隠したくは無かったし、やましいことでは全くないのだから堂々としてあげれば良い。
入院中から他の妊婦さんや赤ちゃんに対して妬み嫉みの感情は全く浮かばなかったこと、誰もこんな悲しい思いをして欲しくはないと思うと同時に、これは我々夫婦に与えられた壮絶でありながら娘が与えてくれたかけがえのない経験であることを述べた。言葉を紡ぐことで心が整理されて落ち着く感覚があった。
その発信に対してあたたかい言葉を多くいただくことができ、前を向くための活力となった。常に繋がれる時代のやさしい恩恵を受けつつ、そのままの勢いで甘えて、親しい友人たちには娘へお線香をあげがてら会いにきて欲しいと伝えた。
我々夫婦は人を家に招待する事が好きで、いろんな人がいつも変わるがわる遊びに来てくれるのが日常だ。だから愛すべき彼・彼女らを娘にも会わせてあげたかったのだ。皆各々のタイミングで訪れてくれて、娘に挨拶した後にその横で色んな話をした。悲しみを分かち合うこともあったし、愉快な話をして心を和らげてくれることもあった。きっと娘もその様子を見て楽しかったに違いない。それは「娘への施し」としながらも、心にポッカリと大きな穴を開けた夫婦を癒す時間でもあった。娘は親想いの優しい子だったんだ。小蝿は盛りを増したが、退治出来るようになった。
8月2日、お寺にお願いしていた娘の位牌の法要に、娘のお骨も抱えて大阪へ出かけた。家族3人でまわる最後の旅行だと思うと見慣れた新幹線からの風景も、全て夢の中のように映った。お寺で対応してくださったのは私と同年代ほどの女性の副住職だった。彼女はおそらく初めての水子供養対応にもかかわらず、事前連絡の時点から一貫して一生懸命向き合ってくださり、娘が手繰り寄せた良縁を感じていた。この日も副住職は目に涙を少し浮かべつつ、元気に赤ちゃんが産まれてくる事は雲の上から地面に刺さった針に糸を通すほど難しい奇跡である事、娘が我々夫婦を自ら選んで宿ってくれた事などを説いてくださった。お話が始まった時からすでに私の目から涙がほろほろ流れ落ちていたが、最後に「お辛かったでしょう……」と、さしのべるような言葉をかけられた時、堪えられず気づけば咽び泣いていた。
本当に辛かった、今でも辛い、しんどい、苦しい。出来る事なら娘をこの手で育てたかった。成長を見守りたかった。でもそれは起こり得ない未来となってしまったから、その気持ちたちにグッときつく蓋をしていたけれど、ごめん、お母さんやっぱり貴女のことが恋しくてたまらないよ。法要していただいている間も夫婦で涙が止まらなかった。
夫が退院後に言った言葉が思い出される。「短い間でも沢山幸せもらったね」。娘がいなければ親としての自覚を持つこともなかったし、この愛情が芽吹くこともなかった。悲しみとともに確実に灯っている幸せ。この感情は娘とまた会える日まで、きっと混ざったままでいるんだろう。これからもたまに蓋を開けて、彼女のことを恋しく思うんだろう。
法要が終わり外に出ると気持ちはすっきりとしていた。娘が亡くなって1ヶ月で経験した節目は、夫婦がすっかり親となって歩み始めていることに気付かせた。お母さんお父さん、これからも頑張るよ。私たちなら大丈夫。東京の家へ帰ると小蝿はどこかに姿を消していた。
名前もつけてあげられなかった貴女へ。私もそちらに渡ったら何よりも先に貴女を強く強く抱きしめてあげるから、貴女も強く強く返してね。そして空白の時間をゆっくりと時間をかけながら埋めましょう。その時私の心の穴もきっと全て埋まって、また新しいページが始まるから。人生のその先の楽しみまでつくってくれる優しい貴女に感謝を込めて。お陰でお母さんの未来は永遠に彩り鮮やかです。