一般の部

優秀賞

歩いた日
三重県鈴鹿市 佐野 由美子さの ゆみこ(54)

 はじめて歩いた日のことを、私は覚えていない。たぶんおそらく「大冒険」「大挑戦」だったのだと思う。
 保育園に勤め、はじめて0歳児を担当した時のこと。私は、その瞬間を目の当たりにした。「それ」は、突然に起こる出来事。ずっと上向きに寝ていた子が、ある日突然寝返りを打ち、うつ伏せになって頭を上げられずに泣いていたのに、いつの間にか腕と足で体を支えてハイハイをはじめ……。ハイハイをして動き回っていたら衝立ついたてにぶつかり、「なんだ、これは?」と見上げていたと思ったら、数日後には衝立を持って立ち上がっていた。そこから長い「伝い歩き」の期間を経て、やがてその日は訪れる。衝立を持って歩いていた子が、その手を放し、前に一歩を踏み出す日だ。きっかけは、だいたい決まっている。「好きな玩具おもちゃを取りに行こうとした」「ご飯の時間になり、食べ物に近付こうとした」。そして……「大好きな人を見つけ前に進んだ」。たいていこの3つに絞られる。
「見て! 〇〇ちゃんが歩いた!」
「すごい! すごい!」
 周りの大人にわあわあとめられて、こどもは満面の笑みを浮かべる。「褒められる」ということは自信につながり、大きなパワーを生む。こどもは「見て!」とばかりに立ち上がり、意気揚々と歩き出す。
 はじめて歩いた日のことを、私は覚えていない。しかし。はじめて「歩けなくなった」日のことは、よく覚えている。「それ」も突然に起こる出来事。その日私は「魚の水替えをしよう」と唐突に思い立った。リビングに置いてある金魚の水槽が、もはやで緑色になっているのが、ずっと気になっていた。気になっていたけれど、面倒で放置していた。放置していたが、やっぱり気にはなっていて、その日「替えよう!」と重い腰をあげた。
 祭りですくった金魚。意外に長生きする。むかし熱帯魚を飼っていた45センチのガラスの水槽。水が入っているとかなり重いが、まあ持てない程でもない。……私は、無理をした。いや、不精ぶしょうをした。外にある洗い場まで行くのに、玄関のなだらかな階段を通るのではなく。テラスの窓から出入りしたのだ。「よいしょっ!」と水槽を抱えて外へ。カルキ抜きをした新しい水に金魚を移し、外の洗い場で汚れた水槽を洗う。ここまでは鼻歌だった。きれいになった水槽に金魚をそっと入れ替えて、また「よいしょっ!」とテラス窓を登った。その瞬間! ぐきっとした。あきらかな腰の違和感。冷や汗が流れる。とりあえず水槽にエアーストーンを入れ、イスに座る。……ここから私は動けなくなった。休日の午後。運悪く、夫はゴルフに出かけていた。助けてくれる人はいない。あぶら汗が流れてきた。痛い! 座っていても、とてつもなく腰が痛い!そうだ、湿布を貼ろう。そう思ったが、立ち上がれない。
「あれ? 立ち上がる時って、どこに力を入れるんだったっけ?」
 私は真剣に考え込んだ。なんとか腕の力で机を支えにして立ち上がる。湿布は廊下を挟んだ隣の部屋にある。狭い家だ。15歩も歩けばたどり着く。だが、1歩も歩けなかった。いや、それどころか、もはや座ることもできない。人生はじめての、ギックリ腰だった。
 それから2週間ほどは、まるで0歳児。寝起きは柱を持って起きあがり、壁伝いにトイレまで歩く。着脱も四苦八苦しくはっく
「あれ? ズボンって、どうやってくんだっけ?」
 と、また考え込んだ。
 そこで思い出したのが、あの0歳児の姿だ。褒められて伸びていたではないか。私も自分を褒めよう。そう決めた。できないことにばかり目を向けずに、できたことを喜ぶようにした。
 そうして日増しに薬で、私は回復していった。普通に一歩が踏み出せた日のことを、私は忘れないだろう。歩けるって、すごいことなんだ。私たちは何気なく日々、すごいことをしているんだ! そう感動した。
 はじめて歩いた日のことを、私は覚えていない。だが、2回目に歩けた日のことは、よく覚えている。うれしかった。動けるって有難いことなんだと気付いた。感謝をした。
 この話を実家の父にすると、父は杖をつきながら押入れを開け、古いアルバムを出してきた。そこにはカタカタと呼ばれる手押し車を押して歩く私の写真。満面の笑顔の先には……おそらく、大好きな父母の姿があったのだろう。
 ふと、杖をついて歩く父の背中を見た。母が亡くなって30年。父も老いたなあと感じる。そういえば……父はいつから杖を使っているのだろう? そんなことも気付かなかった。
 はじめて歩いた日のことを、私は覚えていない。だが、父は温かく見守っていてくれたはずだ。
「ねえ父さん。歩けなくなっても、私がいるから大丈夫だからね」
 小さくつぶやくと、テレビを見ていた父が「何て? 何か言うたか?」と問う。無理無理。こんな小っ恥ずかしいセリフ、二度と口にはしないからね。

戻る
@無断転載はご遠慮ください。