母の挑戦は、いつも「一回限り」という言葉で始まった。
「第一回視覚障害者マラソン大会が出来るんだって。お母さん、走ってみたい。一回限りだろうから、明日から一緒に走って!」
四十二歳、体重八十キロ、全盲の母の言葉に、戸惑いは隠せなかったが、私の母に二言はない。唯一の家族である私は、必然的に伴走者となり、翌朝から、手を繋ぎ、家の前の神社をくるくると走り始めた。
三週間の練習の後に迎えた初の三キロレースで母が手にしたもの、それは、予想だにしなかった金メダルとトロフィー、加えて、今後も走り続けるという決意であった。
「継続は力なり」「出来る人と違い、出来なければ、人の何倍も何十倍も努力しないといけない」と言い、たゆまぬ努力を重ねた母は、マラソンが生き甲斐となり、いつしか「一回限り」を「一生走る」に言い換えていた。
走り始めて三年目、「美智子、ホノルルマラソン走ろう。一度きりのチャンスだと思う」と、母は、フルマラソンの初舞台をホノルルに決める。中学三年、受験の年で迷う私に、「一週間学校休んで落ちる様なら、休まなくても落ちる」と母は一蹴し、共に参加。想像を超える苦しみと、それを遥かに超える感動を味わった。すっかりホノルルマラソンに魅了された母は、三十二年間参加を続けた。
市民ランナーの目標が、フルマラソンを四時間以内で完走する「サブ四」と聞けば、全力投球し、それも達成した。
「美智子、お母さん、百キロマラソン走ってみたい。一生一度の思い出作りに」
走歴十年目、母の挑戦は、遂に百キロウルトラマラソンの世界にまで及んだ。
初回は惜しくも時間外完走であったが、勿論母は翌年リベンジし、時間内完走を果たす。
ウルトラマラソンの魅力にも触れた母は、計八回の百キロレースを走破した。
母の挑戦のそばにはいつも、私をときめかせるパワーがあった。又、次々と自己の限界に挑戦し、それをクリアする母の姿は、「不可能なんてない」と思わせてくれた。
二十二歳で失明し、死を選ぼうとした時期もあった母が、マラソンを転機とし、「私より幸せな人がいるのかしら」「目で感じる光は無いけれど、心はいつもいい天気」と言い、輝いて生きる。その母のそばにいられる事が、本当に幸せで、私の原動力であった。
伴走という形で走り始めたが、いつしか私自身の生き甲斐にもなり、マラソンは、母と二人三脚で歩む人生そのものであった。
このときめきと幸せが、ずっと続くと信じて疑わなかった。
衝撃は突如やって来た。三十二回目のホノルルマラソンより帰国直後、母に癌が発覚、病勢が強く、半年で天国に旅立ってしまった。
母のいない人生に、意味が見出せず、「もうときめきも楽しみも要らない。一体いつまで私の人生は続くのか」と考えたりもした。
一年が経つ頃、私にも癌が見つかった。
さほどショックは大きくなく、むしろ、人生の終着点が見えた気がして、何だか少しホッとした。
「手術は要らない」という私の意向よりも、友人達の熱い思いが上回り、トントン拍子に手術が決まる。そして、「思ったより、良くも悪くもなかった。再発した時は、厄介な手術になる」という主治医の説明と共に手術は終わり、ひとまず元の生活に戻る事が出来た。
「全ての出来事には意味がある」と、よく言われるが、その言葉通り、癌サバイバーとなった私の心は、一変した。
「今まで母に、沢山のときめきと幸せを貰った。今度は私がお返しをする番。それが、私に出来る唯一の親孝行!」と気付き、母へのときめき返しのスタートを切った。
私には、以前から心に決めていた事があった。それは、母が初めて百キロマラソンに挑戦した同じ歳に、私も再挑戦するという事。
今年、正にその歳を迎えた。コロナ禍で中止となっていた大会も、四年ぶりに開催が決定し、まるで神様が、母へのときめき返しの「第一弾」にふさわしい舞台を用意してくれているかの様に思えた。
大会当日、母の娘というプライドを胸に、いつも繋いで走った伴走ロープをポーチに入れ、スタートラインに立った。
過酷なレース中、幾度となくくじけそうになるが、繰り返し思う母の姿と言動が、底知れぬパワーを生み出してくれた。そして、ゴールの瞬間、空を見上げ、直接は伝えられなかった母への深い敬意と感謝を、心いっぱい叫んだ。
「美智子、よく頑張ったね」と、大喜びし、ときめく母の姿が目に浮かんだ。母と私が、心底笑顔を取り戻した瞬間であった。
母へのときめき返しの挑戦は、生涯続く。
決して「第一弾」では終わらせない。なぜなら、私は「母の娘」であるから。