一般の部

優秀賞

「足蹴にされた花たば」
岡山県岡山市 山吹 堯敏やまぶき たかとし(92)

 第二次世界大戦に日本が敗れた次の年の春、中国天津てんしんより、一家四人は日本へ引揚げてきた。九州佐世保の港は、美しい桜の花が咲いていた。九州から岡山に帰る車中からみるふる里のみどりはすばらしかった。
 日本に帰国しても住む家もない。家のこと将来のことなど、不安な中で岡山の叔父の家に帰りついた。
 不安な生活の中で、幸いにも旧制の中学校に転入することができた。その時の中学校の費用など、だれがどうしたものか、考えてもみなかった。
 中学校は焼け後に、木造の仮校舎を建てていた。
 国、数、英、社、理、それに体育もあれば、音楽・書道、美術の教科があった。
 中国より引揚げてきたというコンプレックスを、かかえていた少年時代、どう生きていったらいいのかわからない混迷の中に生きていた。
 それでも友達と学校で語らう夢は、楽しかった。
 こんな少年時代、美術のK先生の授業の一コマは、実に衝撃的しょうげきてきなものがあった。
 九十二才になった今も、K先生の授業の一コマが鮮明によみがえってくる。
 秋の日ざしが心よい日であったように思う。
 若いK先生はやさしい目で、少年たちをみつめていた。
 先生は花タバをかざして、どう思うか、と問いかけられた。少年たちは、「きれいな花です」とか、「美しい花です」と答えた。ところがその答が終るや否や、先生は花をちぎり、手でくしゃくしゃにし、更に足で踏みつけたのである。
 生徒たちは、先生の奇怪な行為に驚き、「ああ」と声をあげた。その後なんとむごいことをされたのかと、怒りが持ちあがってきたが、少年たちは、唖然あぜんとして言葉を失って、先生の行為を見つめていたことを思いだす。
 先生は何も言われず、寂しげな目を少年たちに向けて、教室から出ていかれた。
 その日のことを思いだすと、心がいつもじんとして、おののいていた。それは何か、敗戦を体験した少年には、うまく表現できなかった。少年から青年になり、大学生となっても心の内に何度もこの心のおののきはくりかえされたように思った。
 「美」とは何か、それを感じる時の喜びは、年令には関係がない。しかし「美」を冒瀆ぼうとくする者には怒りを持って立ちむかえ、と先生は力強くメッセージを送られたのではないだろうか。K先生の教育は型やぶりなものであったが、敗戦少年にとっては、強く心を打つものがあった。
 K先生の教えを守って、戦後の若者たちの生きざまに、少しでも寄与できる教員であれかしと思いながら、四十数年の教員生活を送って今九十二才をむかえ、人生も終わりに近づいている私は、八十年前に受けたK先生のショックを、今でも忘れないで思いだして、K先生をなつかしんでいる。
 あと、二、三年も生きれば、私もまちがいなく、鬼籍きせきに入っているだろう。その時、なんとしても、K先生においして、少年の日の心のおののきを、おたずねしたいと思っている。
 東京大空襲や、広島、長崎の原爆によって江戸から明治と大切にされてきた「国宝」は、あっという間に喪失してしまったに違いない。京都や奈良を爆撃しないで、日本の宝を保存してきたと、戦勝国の人々はうそぶくだろうが、東京や大阪など大きな都市にも、国宝級のものは数多くあったろう。それらが、あっと言う間に破壊されたことはまちがいない。
 戦争という愚かな行為のため、かけがえのない宝を失ってしまったのは、何ということだろうか。また、令和の時代になっても、この愚かな行為を続けようとしているとは?
 戦にやぶれ、やっと生きていた時代に、K先生は、力による美の破壊を悲しまれておられたのだと知った時、私はいいしれぬ寂しさを味わった。
 だがこれは現代社会の美の世界だけの問題ではない。AIの時代が始まっている表現の世界にも、虚偽の力がのさばろうとしている。善なるものも、力の前にくずれ去ってしまっている。「真善美」の普遍性はうしなわれているのだろうか。
 K先生の型やぶりな教えは、九十二才になった今もときめきを持って思いだされる。
 K先生がお亡くなりになられて、三十数年もお会いしてないが、私の人生の歩みをうちたてて下さったのはK先生だと、今も深い敬慕の念をもって、思いださせること。何という幸せなことだったろう。

<先生もうすぐおみもとに参ります。
 またすばらしい、心のときめく話をおきかせください。
 先生、ありがとうございました>
 こんなことを、おたのみできるのも、私にとっては、おおいなる心のトキメキです。

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