一般の部

優秀賞

写真が教えてくれたこと
奈良県桜井市 時任ときとう チカ(54)

 五月に母が亡くなった。七十九歳だった。長女の私は遠方に住んでいたため、母の世話をすることもなく、晩年の母との思い出も少ない。知らせを聞いて九州へ向かう新幹線に飛び乗った。携帯に残っている母の写真を探したが、驚くほど少なくて、親不孝だった自分に後ろめたさを感じた。
 父は二十年前に亡くなっており、わたしは初めての喪主を経験した。母の近くに住む妹は、取り乱し、泣くばかりだ。驚くほどの速さで通夜の用意や葬儀の形が決まっていく。しっかりしなきゃいけない。泣きたい気持ちを抑え、なんとか通夜を終えた。
 働き詰めの母だった。浪費家の父、意地悪なしゅうと、そして商売はうまくいかず、パートや配達などの他の収入源でなんとか店の経営を維持していた。わたしには母がエプロン姿で走り回る姿しか記憶にない。母の一生に、楽しいことなどあったのだろうか。母の一生は、苦労と我慢の日々で終わったと思っていた。
 甥っ子が、母のベッドの横に置かれていたアルバムを持ってきた。そこには母の晩年の写真や、母の幼いころから父と結婚するまでのセピア色の写真が収められていた。
 そういえば以前、母との電話で「おかあさんね、いつ死んでもいいように身辺整理しとるんよ。持っとったアルバムも何枚かだけ残してぜーんぶ捨てたけね」と語っていたことを思い出す。母の一生が、この薄い写真アルバム一冊だけになっていた。
 甥っ子がそのアルバムを見て、お葬式には母の写真をスライドショーにして、会場に流すと言い出し、携帯で器用に編集を始めた。それは、葬儀の日の朝に出来上がった。
母の写真には、四国八十八か所をはじめとする、いろんな場所での旅行写真がたくさんあった。どれもわたしの知らない母だった。信州、名古屋、石川、鳥取、宮崎、鹿児島。そして写真の母は、どれも楽しそうに笑っている。「誰と行ったん?」と妹に聞くと、わたしの知らない彼の名前が出てきた。
 母には彼がいた。晩年は、その彼とずっと一緒にいたのだという。その彼も奥様を早くに病気で亡くし、独り身だったという。二人は、茶のみ友達として、ご近所の方々もよく知っていたし、よく一緒に出かけていたようだ。母の死を知って、一番に駆け付けたのも彼だったという。
 一瞬、母に嫌悪感を覚えた。だからこそ母はわたしに言わなかった、言えなかったのだろう。妹が遠慮がちにわたしに教える。
 「足が悪くヨボヨボ歩きの母の手を、いつも支えてくれていた。母が喜ぶならと遠くの道の駅でホワイトアスパラを買って持ってきてくれたり、母の好きなパンを並んで買ってくれたり、二人で山登りしたり、花見に行ったり。彼は毎朝散歩の途中で、母の家の扉をノックして挨拶あいさつするのが習慣で、母が死んだ日、母の返事がないからとお隣の奥さんへ連絡してくれたのも彼なんよ」
 わたしは泣いた。やっぱりわたしは親不孝だ。もし彼の存在を事前に知っていたら、そんな母を、きっと批判していたはずだ。
 わたしに内緒だったためか、その彼は母の通夜に来なかった。わたしは母の携帯から彼に電話をし、「お葬式にはよかったらお越しください。母を最期に見送ってください」と伝えた。しかし丁寧にお断りされた。「わたしは辛くてその場にいられません。篠栗しのくりの寺に行って、間違わず、転ばず、ちゃんとあの世に行けるようにお参りしてきます」と言う。
 妹にそのむねを伝えると「その篠栗の寺は、二人で何度も行っていたお寺」だそうだ。
 父が亡くなり、母は独り身になってから、自由を手に入れ、ひとりの男の人を好きになったのかもしれない。働くばかりの人生だと思い込んでいたわたしには、知らない母の人生がそこにはあった。
 葬儀の中、スライドで大きく映し出された母の写真が流れる。幼い頃の白黒写真の母は、わたしにそっくりだと皆が笑う。十代から成人を迎えた頃の母は輝くほどに美しい。
 苦労していたころの写真はほとんどなかったが、父と離れて並び、ぎこちない笑顔の両親の写真をみれば、父も母も幸せだったような気がする。母の歴史を陰々滅々と感じているのは、わたしだけなのかもしれない。そしてスライドは晩年の旅行写真に移っていく。
 母は時にお遍路へんろの格好で、時にTシャツにタオルを首に巻いて、山や海やいろんなところで活き活きと過ごしていた。その顔にはときめきがあり、喜びと幸せにあふれていた。母は幸せだった。わたしの母は、ちゃんと自分の人生を生きていた。
 スライドショーは、母の人生を繰り返し、繰り返し流し続ける。棺に入った母はとても美しく、そんな自分の人生を一緒に振り返っているようだ。母の写真たちに、見送られ、見守られて、母は旅立った。スライドショーは、ずっとわたしの心に流れ続けている。

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