大賞

幸せの匂いのする家
群馬県前橋市 高山 恵利子たかやま えりこ(69)

 竹藪たけやぶは同じ方向に傾いたまま、弓なりの姿勢でもがいている。「こんなに風の強い日は、あの音がする」と思うと、私は家に入るのが怖かった。末っ子の私は学校から帰るのが一番早い。晩秋のコンニャク芋の収穫時は、いつも家に居るはずの祖母までが畑に駆り出される。芋を満載した耕運機がライトをつけて戻るまで、私は家に一人きりになる。
 「カッシーン!」。唐突すぎる一発の雷鳴のように、耳をつんざく音がするのはこんな時だ。私が一人になるのを狙って、魔物の叫びにも思える大音響が、天井から降ってくる。私は魔物に気づかれぬよう、家の中で身じろぎもせず家族の帰りを待つのだった。
 ようやく耕運機の音が聞こえ、私は人心地ついた。夕飯準備のため家に入ってきた祖母は、コタツに体を埋めている私をみつけて、「寒かったんべえ、今ストーブつけるからなあ」となぐさめた。杉ッ葉が勢いよく燃えだし、暖気が煙突を伝うころ、私はコタツからい出て、うどんをね始めた祖母のかたわらに座った。炎に癒されながら、早くこの家に潜む魔物の存在を知らせなければと思う反面、私の妄想かも知れない一言で、楽しい夕餉ゆうげのひと時を壊すことも怖かった。けれど度重なる恐怖に耐えかねて、ついに私は魔物の存在を父に打ち明けた。父は「あの音がおっかなかったんかあ」と笑った。
 私が生まれる前年、我が家は放火で全焼した。山のけやきや杉をすべて切り、建築用資材と費用に充てた。伐採ばっさいした木を里まで運び、じっくり乾燥を待つ予定だった。けれど養蚕ようさん農家でもある我が家は、住居兼蚕室かいこしつである家屋を一刻も早く必要とした。材木の十分な乾燥期間を待たず着工に踏み切ったのだ。そのため空気が乾燥する晩秋になると、耐えきれなくなった木が悲鳴を上げるという。子供部屋の 欅の柱の亀裂はそのためだと教えられた。
 安堵あんどした反面、火事を知らず育った私には、まわしい過去と向き合う父の悲鳴のように聞こえるようになった。家も山の木もすべてを失くした父の慟哭どうこく。それは魔物より恐ろしい現実だった。私は物をねだることも、手伝いを嫌がることもなくなった。私は父と共に我が家にひそむ「貧乏」という魔物と戦わなければと思った。けれど「貧乏」を自覚することは、心凍るほどに寂しいことでもあった。
 そんな私を元気づけたのは、翌年の初秋の出来事だった。学校から帰った私を出迎えたのは、見渡す限り一面のツバメの群れであった。母屋おもやや土蔵や倉庫の屋根では陣取り合戦が勃発し、多すぎるツバメを乗せた電線はたわみ、上空では到着したばかりのツバメが渦を描いていた。おびただしい数のさえずりは、天をも揺るがすほど。窮屈そうに横一列に整列したツバメたちは、ところどころで弾き出された者たちがわずかに宙に浮く。するとさっきまでの居場所は無くなって、はみ出した者たちは、あてどもなく滑空するしかない。
 驚いたことにその喧騒けんそうの中で悪魔のすみかと思えた我が家が、鈴なりのツバメをのせて笑っていた。大海原にたゆたう船のように、楽しげにスイングしてみせた。おしゃべりなツバメたちは「この家は最高さ」と私に告げる。カメラもない。人を呼ぶすべもない。心に留め置くしかない光景。驚きと喜びとわくわく感がごちゃ混ぜになった焼け付くほどの熱いときめきが、私のてついた寂しさを溶かしていく。私は温かな幸福感に包まれていた。
 その晩、興奮して報告する私の話をうけて、父は「南に渡る集合地にわが家が選ばれたんだ」と誇り高く言い放った。私の家はツバメたちに選ばれし家。ツバメたちが好むのは金持ちの家でも猫のいない家でもない。幸せな匂いのする家。兄が「集合場所は誰が決めるん?」と問うと、母は栗をく手をとめ、「そうさな、じいさんツバメかな」と応えた。
 「腹が減ったらどうするん?」という私の問いかけに、南国で暮らしたことのある父は、「南へ行ったら食い物がいっぺえある」と微笑んだ。私は心弾ませ、ツバメたちの南国の暮らしに思いを馳せていた。
 わが家に魔物などいなかった。家は住む人の悲しみや苦しみを飲み込んで、住む人と共にある。わが家は泣いていない。いつも笑っていたのだ。わが家には私を待つ祖母がいて、で栗を食べながらの楽しい団欒だんらんがあった。それを幸せというのに。私は貧乏を自覚する大人でありたいと、背伸びしすぎて、寂しさに心を凍らせていた。もし誰かに「君は幸せなんだよ」とさとされても、私は耳を貸さなかったかもしれない。私のかたくなな心を溶かしたのは、ツバメたちをのせ誇らしげに笑っていたわが家の姿。あの日の光の矢で射ぬかれたような鮮烈なときめきが、一瞬で私の心を溶かした。私は幸せの匂いがする家に住む子供。
 六十年が過ぎた今も、わが家は健在だ。その寛容な姿を見上げるたび、老いた私の胸は「じいさんツバメがまた、わが家を集合地に選んでくれないかしら」と、淡くときめく。

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