中学生の部

佳作

全ての人に幸せを。
品川区立伊藤学園 9年 青木 千笑あおき ちえみ

 私にとっての「願い」の場は神社だ。幼い頃から旅行などで親に連れられ神社に行くことが多く、心情的に身近な存在だった。そして神社に行くたび、あれがしたい、これがほしいといった小さな願いから、自分の進路や将来に関わる大きな願いまで何かしらのことを拝殿はいでんの前で願った。
 正直、それらの願いが叶ったことはほとんどない。どうせ神様なんていないんだと半ば何かを願うということに投げやりになっていた折、とある小説を読んだ。それは神々とその神の御用を聞く御用人の物語で、人間が神に対して自分の願いを叶えてもらおうとする現代の考え方とは真逆ともいえるものだった。
 物語の中で一柱いっちゅうの神が御用人に言う。「昔は神祭りという行為により、人から感謝の心を奉納ほうのうされることで神の力は補われていた。そして人は、その神から恩恵を受けていた。神と人とは、お互いがお互いを生かしめる、そんな存在であったのだ」と。この言葉で私は伊勢神宮の神嘗祭かんなめさいについて聞いたことを思い出した。
 年間一五〇〇回に及ぶ神宮の恒例のお祭りの中でも特に重要とされる神嘗祭は、その年に収穫された新穀しんこく天照大神あまてらすおおかみに捧げて御恵みに感謝するというものだそうだ。聞いた当時は特段何も思わなかったが、小説の台詞せりふを知った後だとこれが正しい神祭りの一つなのだろうと感じられた。
 私が読んだ小説そのものはフィクションだが、私はこの小説の考え方にどこか納得させられる部分があった。人間は普段は神など見向きもしないでおいて、困ったときにだけ神に頼ろうとする。そして願いが叶わないと不平不満を言い、神に責任転嫁てんかをし始める。現代の世の中では神様は願いを叶えてくれるものという考えが当たり前かのようになっている。しかし、普段は参拝もしないでおいて困ったときの神頼みというのは都合が良すぎるだろう。人間の力ではどうにもならないこともあるけれど、自分の努力不足まで神のせいにして認めようとしないのは間違っていると思った。
 私はこのような考えから、無責任に自分の願いをぶつけることに抵抗を感じるようになって、神社の参拝で自分の願いを言うよりも「いつもありがとうございます」と口にするようになった。そのことに意味があるのかどうかはよく分からないが、個々の願いをただ言って帰る人が多いのだから、私ぐらいは感謝を伝えてみるのも良いのではないかと思っている。こうしてみると、願いを言っていた時より、不思議と誇らしいような清々すがすがしい気持ちになれている気さえするのだ。
 けれど、最近の世の中ではウイルスや戦争、食糧危機など不穏当ふおんとうな話ばかりを耳にする。そして、それらの遠く離れた地で起こっていることに関して、一介の中学生である私にできることなどあるはずもない。ただただニュースを眺めて自分の無力さを痛感させられる、そんな日々が続くとどうしても願わずにはいられなくなる時がある。この世界に平和な未来を、全ての人に幸せを。

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