今、僕の住む札幌の街で由々しき事態が起こっている。いや、僕が知らないだけで札幌に限らず全国的に起こっている事態なのかもしれない。七月、札幌駅から地下直結の大きな書店がひとつ姿を消した。つい最近、シャッターが下りたままのその場所を通り、胸の奥の底のほうが痛くなった。
(ここは心の有る場所なのかもしれない)
その痛みのすごさに、どれだけ僕がその場所を好きだったかを知った。八月、大通りのテレビ塔の近くの本屋さんが消えた。ここは昨年の十一月に五十周年のお祝いをしたばかりだ。北海道出身や北海道に縁のある有名な作家からのお祝い直筆サインが店頭を飾り、その前でピースして写る僕の嬉しそうな顔をした写真は、今見返すと、悲しい一枚になった。
そして九月、さらにまた数店舗の古くからある本屋さんがそっといなくなる。「時代の流れだからな。仕方ないよ」。大人だけじゃなく、僕の同級生達も、そんな一言で片づける。もっと未来には「本屋に実店舗? 信じられない!」。そういう時代が来るのかもしれない。
僕が何度も読み返す本は全て本屋さんで手に取ったものばかりだ。親切で物知り『歩く辞書』の様な書店員さんに相談すれば、僕が今、読みたい本が即座に紹介された。本のプロだなあと思った。
本屋さんの空気も好きだ。新しい本たちが放つ紙の匂いは鳥肌が立つほど僕をわくわくさせてくれた。僕の亡くなった祖父も本の虫だったそうだ。帰省すると一階の応接室や二階の書斎には、そびえたつ大きな本棚があり、興味深い本が並んでいる。もし祖父が生きていたら、書店がどんどん消えていく現状に僕以上に心を痛めたことだろう。
「ネットで読めるし、注文できるじゃないか」という人もいるだろう。ネットを立ち上げ、本のページへ飛び、そこから膨大な量の本のレビューを読んで、購入に至る過程は、元々本に興味のある人であればなんてことはない。ワンクリックでも自分の意志でアクションが必要だ。その動作は本を読もうと思う気持ちがあっての動作だ。出掛けたついでにふらりと立ち寄って本を探せた本屋さん。なんて贅沢な事だったか、失われつつある今その贅沢さがわかる。そこで手に取ったお気に入りの一冊に出逢えた高揚感にネットは程遠い。感染症蔓延防止でふらりと出掛けられない状況だったのもある。家に籠ってネットを開けばそこには何時間でも人を飽きさせない工夫が凝らされた動画があふれている。けれど……と、僕は思う。
そういう動画を観ている時、確かに楽しい内容とは感じるが……僕の頭も心も動かない。完全な受け身だ。本は何度も読む手を止め、時にはページを戻り、時には数日置いて……読み返す。僕の頭も心も総動員され様々な考えや想いが去来する。本を読む時、僕は主人公と共に登場人物だ。動画は最初から最後までただの傍観者だ。僕の願いは本の文化を守る事。AIにも何にも負けない人の思考力は、本が最後の砦だと思うのだ。