一般の部

佳作

先生の手
大阪府箕面市 矢鳴 蘭々海やなる ららみー (38)

 一九九五年の神戸の震災で、東灘区ひがしなだくに住んでいた私は小学校の同級生だった友人を失った。彼女は当時、まだ十歳だった。「また遊ぼうね」と手を振って別れた日が、最後に遊んだ日になってしまった。そんな悲しい現実を、私たちが通っていた小学校の子どもたちも同様に経験していた。
 やがて水道やガス等のインフラが再開し、街の復興工事が進んでも、死んだ友達は二度と戻ってこない。「またあの子と遊びたい」という願いは、決して叶えられることはない。友達だけではなく、親や親戚、そして震災の怪我で体の一部まで失った生徒もいて、深く傷ついたまま学校に通う彼らの多くが、暗くて寂しげな表情をしていた。震災の前までワイワイはしゃぎながら食べていた給食の雰囲気も一変して、お通夜の食事のように黙って過ごす生徒も少なくなかった。
 春の到来とともに私は小学六年生になったが、同じ教室にいつも給食のほとんどを残す一人の女生徒がいて、彼女を見るたび胸が痛くなった。彼女は給食のときに一緒に食べていた友達を震災で失って以降、食べるときに笑顔を見せなくなっていたからだ。傷ついた彼女に楽しんで食べようなどと言うことは出来なくて、でもせめてたくさん食べてほしいと、胸中で葛藤する日々が続いていた。

「給食の白ご飯で、おにぎり作ろうか?」

 ある日の給食の時間に、担任のM先生がその女生徒に明るく声をかけてこられた。まだ二十代後半の若い女性の先生だったが、パンチパーマに似た短髪でハキハキと喋る男まさりな方だった。体育の授業では生徒たちと本気でドッジボールをして遊び、面白いことがあるとガハハと大口で笑う豪快なM先生は、震災後も生命力を感じさせるエネルギーに満ちていた。

「塩かけて握るから、いっぺん食べてみて。嫌なら残してええから」

 そう言うと、M先生はその生徒の白ご飯の皿を手に取り、配膳用のテーブルへと運んだ。手を洗うと慣れた様子で塩を両手にまぶし、ご飯を回転させるように握り始める。女性にしては大きな手の中で、ご飯はみるみるうちに綺麗なたわらの形に整えられていった。
 どうぞと言ってM先生が差し出したおにぎりの米粒の一つ一つが、つやつやとしていてとても美味しそうに見えた。差し出された生徒は少しためらっていたようだったが、意を決しておにぎりを手に取り、一口かじると彼女のひとみがパッと見開いた。
「おいしい?」と先生が聞くと、その生徒はうんうんとうなずいて、今度はおにぎりに大きくかぶりついた。頬の持ち上がったその表情が、久しぶりに物を食べた人のように輝いて見えた。
「先生、私もおにぎり食べたーい!」
 周りの生徒たちが次々に声を張り上げると、M先生は「順番やで~」とほがらかに笑って応じてくれた。M先生の作るおにぎりはちょうど良い塩梅あんばいでたちまち評判となり、給食の時間になると先生を前にして「おにぎりの行列」が出来るほど人気になった。他の教室から様子をのぞきに来る生徒たちも出てきて、それを聞いた他の先生たちも同じようにおにぎりを作ってあげるようになった。
 少しずつ、給食の時間にまた生徒たちの笑顔が戻ってくるのがたまらなく嬉しかった。思い出すたび私の脳裏には、M先生のあの大きな手が浮かぶ。ただ、震災で人数が減ったとはいえ、一クラスあたり約二十人は在籍していた生徒たちのおにぎりを毎日作り続けた先生の手は、夏が近づくにつれてアカギレで真っ赤になっていった。その状態で塩を手にまぶせばどれだけ痛かったことか、主婦になって家族のために弁当を作る立場になって初めて思い知った。
 それでもM先生が続けてくださったのは、「震災で傷ついた生徒たちの心を救いたい。美味しい物を食べる幸せを取り戻してほしい」、そんな切なる願いがその手に込められていたからだと思う。
 並外れて忍耐力のあるM先生が、たった一度だけ、私たち生徒の前で号泣ごうきゅうしたことがある。確か風の冷たい師走しわすの頃だった。ある女生徒の靴箱くつばこに、「死ね」と書かれた手紙が入っていたのだ。犯人さがしで教室内に疑心暗鬼の視線が飛び交う中、M先生は唇をふるわせてこう語り始めた。
「先生が一番悲しいのは、みんな命の大切さを震災から学んだはずなのに、『死ね』という言葉をクラスの仲間に平気で投げつけたことや。震災で天国に行ったお友達はどれだけ生きたかったことか。彼らの無念を教えられなかったことが、本当にくやしいんよ」
 鼻を真っ赤にしてポロポロと涙を流すM先生を見ていた私も、気付くと涙で頬が濡れていた。生きられなかった生徒たちの分も、思いやりを持って生きてほしい。先生のそんな願いの強さに、食べ物がのどに詰まったときのような、深い息苦しさを覚えた。
 先生の手にあふれていたのは、生徒への無償の愛だった。二十七年以上が経った今でも、おにぎりを見るといつも、喉元に懐かしい味と苦しさがこみ上げる。

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