一般の部

佳作

内包
東京都 近藤 恭子こんどう きょうこ(52)

 新聞受けから新聞を取り出す。まぶしすぎる朝日にぐんと背伸びをする。ああ、今日という一日が始まる。ゆっくりと視線を下ろすと、そこにはプランターに植えたチューリップ。
「このチューリップ、これ以上芽が出ないんだよね」
 同じ時期に植えたのに、ひとつだけ芽がほとんど出ない球根。他は青々と光沢を帯びた芽をのぞかせているというのに。
「わたしみたい、だね」
 隣にいた娘がつぶやく。土のなかでいまだ芽を出さないチューリップと自分を重ねている。キュンと胸が痛い。返す言葉が見つからないまま、泳いだ視界の先にランドセルを背負って登校する子どもたちの姿が映る。みんな一方向へ。
 娘は世に言う「不登校児」。思えば幼児期のころから「ぎこちなさ」をいろんなところにまとっていた。スキップもそう。友だちとたのしく遊ぶこともそう。そんなぎこちなさを目の当たりにするたびに、私の真ん中がキュンと痛んだ。あのキュンの正体は一体何だったのだろう。他の子と「同じようにできない」姿を目の当たりにするからなのか。それとも娘自身の思いを想像し、そこに私自身の思いを重ねるからなのか。

 二年生の時だった。
「けんばんハーモニカがうまくひけない……」
 鍵盤ハーモニカ本体を左手で支える。右手で鍵盤を押さえる。吹き口から息を吐いたり吸ったりする。このような三つの動作を同時に行うことが必要になる演奏。どれかに集中すると、どれかが出来なくなる。立ち止まっている間に、みんなの音はどんどん先へいってしまう。丸いほっぺに、ぽろぽろと涙がつたう。みんなと同じように私は出来ない。
 夜の闇は独白に向いている。一日を終える薄暗うすぐらさは、言いたくて言えなかった気持ち。言いたいけれどどう言っていいか分からない気持ち。あるいは、できれば言いたくないけれど、抱えきれなくてれ出してしまう気持ち。そんな感情たちが顔をのぞかせるのにうってつけの時空間だ。豆電球のオレンジ色がほんのりと照らす布団のなかで娘がつぶやく。
「あした、おんがくがある。いやだな」
「うん、そっかあ……。どうしたい?」
「……わからない……」
 幾晩そんなやり取りをし、共に練習を重ねただろうか。そんなある夜、
「全部みんなと同じようにできなくてもいいじゃない?①のところまで出来るようになったから、そこまでにしてもらう?」
「……」
 しばらくの沈黙の後、娘はぽろぽろと涙を流しながら言った。
「ここまでとか、かんたんバージョンじゃなくて、みんなと同じようにやりたいんだよ」
 そうだったのか……。
 「同時期」に「みんなと同じに出来る」ことがそんなに大事なのだろうか? 私はいつもどこかでそう思ってきた。だから、出来るところまで取り組んだ自分に丸をつけようよ。そんな風に娘に関わってきた。しかし、目の前にいる娘は「出来たい」のだ。出来ない自分をわかりきったうえで出来るようになりたい自分がいることを苦しみながら見つけたのだろう。
「どうしたい?」
 その答えは、本人の中にしかない。よかれと思い「ここまででいい」ゴールを示すことは、本人の願いとは離れていることがあるのだ。「こうしたい」を自分自身が見つけることは苦しく難しい。「こうしたい」が芽生えるまでには時間が必要だ。
 やがて、玄関先のチューリップの球根は、芽を出した。他より時間はかかったけれど、つやつやとした芽を朝日に向かって伸ばしていった。

 時は流れ、娘は六年生になった。
「明日、音楽があるんだ。楽しみだな」
 相変わらず楽器は出来ないけれど、長い不登校期間に唄を歌う喜びに出会ったのだ。「こうしてみたい」が少しずつ芽生えはじめているようだ。固い球根の中には、柔らかな芽が内包されている。それをふくらませ伸ばしていこうとするのは内なる力だ。願いは時間をかけて発芽する。

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