みかんをつくるつもりはなかった。
段々畑の上から瀬戸内海をながめながら思い出す。
会社勤めをしながら二十代のころから、
「いつかは島に帰ろう」
と思っていたが、父を継いでみかんをつくる気はなかった。
中学校に入学するころ、オレンジの輸入自由化をきっかけにみかんの価格が暴落し、家の収入が激減した。年間を通じての農作業、とりわけ真夏の消毒や摘果の作業を手伝いながら、
「これだけつらい作業をしてこの手取りでは……」
と子どもごころに思ったものだった。
いずれ島に帰るとしても、ほかの仕事をしよう、と考えていた。
それが変わってきたのは、四十代になって地元のNPO法人の交流事業で、東北や北陸を訪れたことだった。うちのみかんを手土産にすると、多くの方がこちらが恐縮するほどよろこんでくれた。
「みかんってこんなにおいしいものなんですね」
と言ってくれる方もあった。
やがて、みかんというのは、日本人にとって大切な果物ではないか、と思うようになった。
そのころの職場の近くの神社には、拝殿の前に桜と橘が植えられていた。御所の左近の桜、右近の橘にちなんでいたのだろう。日本人の気持ちの深いところに、みかんはあるようだ。
「やっぱり、みかんをつくらなきゃな」
と思うようになっていた。
二十数年勤めた会社を早期退職したのは、父の死去と、身体が動く五十代に新しいことを始めよう、という気持ちからだった。
家には大きな畑が三つあったが、海に面した一つの畑は、三十年ほど前の台風十九号の潮を巻き上げた暴風による塩害で、多くのみかんの木が枯れてしまい、数本をのこしてほとんど耕作を放棄した状態だった。
退職の翌日から始まったのが、その畑を直すことだった。
伸び放題に茂った雑木にからまったかずらを降ろし、一本ずつ切り倒してゆく。大きい木は親戚に頼んでチェンソーで倒してもらい、手で枝を払ってかついで運び出す。狭い段々畑に重機は入らない。
一年もあればできるだろうと思っていた作業だが、結局三年がかりになってしまった。
時間をかけて雑木を切って降ろしてゆき、次第に段々畑の全貌がみえてくると、畑と対話しているような気持ちになってきた。
「水はこっちに流れたいんだな」
「そろそろ草を刈ってやらなきゃ」
と。
直した畑には、春になるとみかんの苗を植えた。そうすると、苗と対話するような気持ちになってくる。
初夏から秋にかけては、草刈りが多くなる。除草剤を使えば、という人もいるが、刈払い機を使っても草を刈ってやった方が、みかんの木は心地よいようだ。
草があることで虫やクモが居つき、土を掘ればミミズが見つかる。そうした自然の流れの中にいたほうが、みかんの木は機嫌がいい。気候と土が、みかんを育ててくれるのだから。
畑には二つの斜面がある。一つの斜面にはみかんを植えたが、もう一つの斜面にはこれからレモンやライムを植えていこうと考えている。
日本人の柑橘へのかかわり方も以前とは変わってきた。もちろん、みかんとの深いかかわりが変わることはないだろうが、たくさんの方に暮らしの中で柑橘に親しみ、心地よくすごしてもらえるように畑をつくってゆきたい。
一日の作業の終わりには、段々畑の上で腰を下ろして海と瀬戸内の島々の夕景をながめる。
台風で牙をむき、畑を壊滅させたのも海だったが、気候をつくり、みかんを育ててくれるのも海だ。海は、土地を分断するものではなく、人とひと、人と自然や世界をつなぐものと思う。
海と畑のはぐくんだみかんにも、人の気持ちをつないでいくことができるだろう。