中学生の部

佳作

時の流れとナポリタン
東洋大学京北中学校 3年 黒田 夏帆くろだ かほ

 今回の新型コロナウイルスで、私たちの生活は大きく変わった。それと同時に、命をおびやかすかもしれない未知のウイルスを、前に多くの人が生きることと死ぬことについて考えたのではないだろうか。
 私は本来、人が生きる意味はないと考えている。これは〇か一〇〇、白か黒の極論だが、この世に「どうしても必要なもの」などないからだ。考えてみてほしい。ヒトがいない地球を。ヒトがいない世界を。文明のない世界を。何を感じるだろうか。
 私は何も感じなかった。なぜならそこに私に関する利害が一切ないから。例えば自然や、動物を思い浮かべても「在るな」と思う程度だった。山を見て山だと思うように、それ以上でもそれ以下でもない感想だ。
 実はこのように思う人はかなり多いのではないだろうか。水も、生物にとってはかけがえのないものだが、生物の居ない場所ではそれほどの価値は要さない。偶然そこにあったものに人が後から価値をつけたに過ぎないのである。人間と言う存在もまた然り。生態系の維持のためだとか、種を存続させるためだとか、今生きていること、今まで生きていたということは、確かに役割や意味があるけれど、それがなくなったところで時間はただただ流れて行くだけだ。
 私たち人類は多くのものを変えてきた。地球規模で見たとき、私たちが自然に手を加えるようになってからかなりのスピードで形を変えた。川も山も海も動物も。
 此度このたびのコロナウイルスは地球の自浄作用だと言う人もいる。
 それほどまでに多くのものがあまりに速いスピードで変わりすぎた。
 私たちは動物であること、生きていること、いつかは死ぬこと。慌ただしい毎日に脳が忙殺され、考えることを放棄してはいないだろうか?
 今回のコロナウイルスの影響により、生活は大きく変わった。今までの当たり前が急にそうではなくなり、非日常が日常になりつつある。そして驚いたことに、私たちはそれを受け入れ始めている。文句を言いながらも、新しい日々に順応し始めているのだ。
 結局私たちはいつか変化を受け入れる。それは変化が異常ではなく、変化し続けていることこそが平常だと心のどこかで知っているからだ。ただ文明を築き上げる中であまりにも貪欲どんよくになり、いつからか変わらないことを当たり前だと思うようになった。
 外の世界がどれだけ荒れようと、自分達の住む箱庭が平穏であればそれで良いと。これは精神面でも言えるように思う。
 不変なものはないし、今を保つためには徐々に代わり続けなければならない。
 というより私たちは変わり続ける時に乗っている。意識しようともせずとも時は流れていく。変わることを祈ろうと変わらないことを祈ろうと、常に世界は変化し続けている。
 私たちはそれに気付く側だ。
 いつから世界を変えていると自惚うぬぼれていたのだろう。
 私がナポリタンを見ているのではなく、ナポリタンが目の前にあることを、たまたま脳が認識しただけだったのだ。

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