「何なら出来るの?」
ムスッとした顔で聞かれる。もう何度目の事か。
私は昔から、どうにも苦手な事がある。「塩梅良く」する事だ。例えばスポーツ。丁度良い高さから滑らかに手離す事が出来ないので、ボーリングではいつ床に穴があくかとハラハラされる。日常生活でもそうだ。熱湯と水の蛇口をそれぞれ捻って湯をためなければならない風呂は、いつも適温・適量に出来ず怒られた。片付けを手伝おうと、余ったおかずをタッパーに入れれば、スペースが大幅に余るか入りきらない。運転すれば、徐々に踏み込む事が出来ないので急発進するし、目測を誤っていつも急停車してしまう。道だって、真ん中を走っているつもりなのに、助手席では「危ない! もっと右! 行き過ぎ! 真ん中を走って!」と大騒ぎされる。
私はいつだって真剣にやっている。それなのに、周りはいつだってムスッとイヤな顔。
「どうして? 大体わかるでしょう」
「何なら出来るの?」
「分からないなら目印をつけるとか、聞くとかできないの?」
何度も何度も言われてきた言葉だ。それも「出来た」と思った瞬間に。頑張っても頑張っても報われない。自信満々でやりきった所でドン底に突き落とされるのである。悔しいからたくさん練習したし、お風呂にはこっそり油性ペンで印を付けた。それでも、出来ていないのだ。稀に出来を褒められたとしても、いつもと何が違うのか分からないので、参考にできなかった。
自分は欠陥品なんだ。頑張っても出来ないんだ。そんな思いを抱えながら、私は社会人になった。
案の定、仕事でも失敗は続いた。インクの減り具合を見て補充液を入れるよう言われたがタイミングが摑めず、適当に用意するよう言われた書類の部数も適当ではなかった。A4サイズのチラシすら真っ直ぐに貼れず、仕事が雑だ、やる気がないと怒られた。
「何なら出来るの?」
業務で関わりのある人達は皆、そうため息をついた。
社会人四年目。私は怖いと評判の課長の部下になった。どこからともなく「罰としてそうなったんだ」という噂が聞こえてきた。辛かった。
対面初日から、課長は言った。
「田中さ、何なら出来るの?」
ムスッとした顔で、来る日も来る日も言われ続けた。悔しくて、悲しくて、情けなくて、ある日ついに泣いてしまうと、課長はムスッとしたまま語り出した。
「この数日で、田中の苦手な事は何となくわかった。でも得意な事はまだ見つけられん。何か無いの?」
それだけ言うと課長は去って行ってしまった。課長の言葉は、私の頭の中でグルグルと繰り返し再生されていた。
次の日、気まずさを抱えながら出勤した私に、課長はいつも通り挨拶をし、書類を二枚手渡した。
「これ十二時までに」
数日前、私が処理を失敗した書類だった。二枚もある。出来るだろうか。不安な気持ちで書類をめくると、二枚目も一枚目と同じ内容の書類だった。一枚目と違うのは、右上に大きく「田中」と書いてある事、それから、本文に詳細なメモが書き込まれている事だった。課長が私のために作って下さったんだ。私はお礼を伝え、早速処理に取り掛かった。
メモは、曖昧な指示がなされている所を中心に、非常に具体的に書き加えられていた。「不明点は都度私に質問してください、どんな事でも何度でもどうぞ」との朱書きもあった。曖昧な指示も、分からなくなった時に聞く相手やタイミングも、私が毎回躓いて、失敗に繋がってしまう点だった。
普通出来るだろうではなく、田中の普通(出来る方法)はと考えてくれたのがひしひしと伝わって来た。責められていたのではない。むしろ真剣に向き合い理解しようとして下さっていたのだと分かり、前日とは別の涙が溢れて来た。
何度か質問に伺い、どうにか時間までに書類を仕上げると、課長は「ありがとう」とぎこちなく笑いかけて下さった。「こちらこそありがとうございました」と応えながら、ついその表情を見つめていると、課長は咳払いをして表情を戻した。
「僕は笑顔が苦手なんです」
「不器用だが丁寧な仕事をする人」――課長と働くようになり、周りからの評価は一変した。具体的に話して下さる方も増え、仕事は円滑に進むようになった。後に訪れた病院で、ASD(自閉スペクトラム症)である事も判明し、私も自身の苦手さとの付き合い方が見えて来た。なぜできないかより、どうすればできるか。そう考えるようになり、私の世界は輝きだした。
「頑張り方を知った田中は強いね」
「その強さを下さったのは課長です」
私は感謝しているが、課長は首を横に振る。
「僕はキッカケを作っただけ。変わったのも周りじゃない。田中自身が変わったから今があるんだ」
課長は力強く、そう言って下さった。
「何なら出来るの?」
今日もまた、ムスッとした顔で聞かれる。もう何度目の事か。私は笑って答える。
「課長よりは上手く笑えます」
冗談が上手くなった、と笑うぎこちない笑顔に励まされながら、私は今日も元気にパソコンに向かう。