一般の部

佳作

スパイ手帳
北海道恵庭市 佐々木 晋ささき すすむ(59)

 小学六年生の時、仲の良い三人組で「少年スパイ団」を結成した。ぼくらスパイの必携品ひっけいひんが、当時流行っていたスパイ手帳だった。
 スパイ同士の連絡はスパイメモにスパイペンで書くことにした。読み終わったら、秘密を守るためにすぐに文面は消す。読み直す必要があれば、こすって再生すればいい。敵に奪われそうになったら水に溶かしてしまう。ぼくらはきたるべき冒険の日に備えていた。
「おれもスパイ団に入れてくれよ」
 ある時、級友の浩二がそう頼んできた。スパイ一号のぼくは即座に断った。
「浩二はスパイ手帳を持ってないじゃないか。どうやってスパイ活動ができるんだ」
 十一歳のぼくは残酷な言葉を口にしていた。
 浩二は貧しい家庭の子どもだった。スパイ手帳を買うどころか、三度の食事すら満足にとれない家庭で育っていた。そんな家庭環境をぼくはよく知っていた。仲間外れにしないで一緒に遊ぶべきだとも理解していた。それでも、浩二をスパイ団に入れるのをこばんだ。ぼくは、スパイ手帳こそがスパイ団の結束の証だとかたくなな態度を取り続けた。
「スパイ手帳さえあればいいんだな」
 浩二は吐き捨てるように言って、去っていった。哀しい捨てぜりふだった。
 スパイ団の活動は三人で続けた。ぼくたちは秘密基地を作り、拾ってきた犬をそこで飼った。その犬をルパンと名づけて可愛がった。給食のパンを残してはルパンの食事にした。
 ある日、ルパンが基地から消えてしまった。スパイ団の力を見せてやると、ぼくたちは犯人を追った。容疑者として浮かんだのが浩二だった。ルパンがいなくなった日、秘密基地の近くを通ったという目撃情報があったのだ。ぼくは即座に浩二が犯人だと決めつけた。
 ぼくは自転車を飛ばして浩二の家に向かった。うす暗い家の中で弟と妹が留守番をしていた。「下の妹が熱を出したので、兄ちゃんは母ちゃんに知らせに行った」という。ぼくは幼い弟妹きょうだいに犬を知らないかと執拗しつように尋ねた。二人は「知らない」と答えるばかりだった。
 次の日、学級会で浩二が「無実の疑いをかけられて、いやな思いをしている」と涙ながらに訴えた。事情を知った先生はぼくらを叱り、スパイ団をすぐに解散するよう命じた。
 スパイ二号と三号は、ひとりで勝手に浩二の家まで行ったぼくをなじった。
「悪を倒すはずのスパイ団がこんなふうに解散させられるなんて、俺たちは悔しいよ」
 ぼくを非難して二人は去っていった。
 スパイ団は解散した。ルパンも帰ってこない。秘密基地は下級生に譲った。ぼくに残されたのはスパイ手帳だけだった。
 ところが、そのスパイ手帳すらも失ってしまった。どこかに落としたのか、それとも誰かに盗まれたのか。誰にも相談できず、ぼくは独りで探すよりなかった。そして、また浩二を疑っていた。浩二が盗んだのだと。
 ぼくは自分が次第に悪い人間になっていくようで恐ろしかった。ただ貧しいというだけで浩二を疑ってしまう自分はなんと卑劣ひれつなのだろうと暗い気持ちになった。そして決心した。もうスパイ手帳を探すのを止めよう。あんなものは、もういらない、ないほうがいい。
 季節はめぐり、ぼくらは少しずつ少年ではなくなり、小学校の級友たちはそれぞれ別の道へと進んでいった。浩二は中学を卒業すると小さな工場に就職し、のちに自衛隊に入隊した。高校から大学へと進学したぼくはスパイ手帳のことなど記憶からすっかり消えていた。
 ところが、ぼくのスパイ手帳は二十年後に戻ってきた。クラス全員で埋めたタイムカプセルから出てきたのだ。スパイ手帳の消えるメモ用紙に「スパイさんじょう! きみの宝ものはいただいた」とスパイペンを使った下手くそな字がうすく残っていた。卒業文集と照らし合わせてみると、浩二の字だった。どうやら本当に浩二の仕業しわざだったようだ。
 それでも、ぼくは浩二に感謝していた。自分の心の狭さや卑劣さを知らしめてくれて、人間として恥ずかしくない生き方へと引き戻してくれたのが浩二だったからだ。あの偏狭へんきょうなスパイ一号だったぼくが、浩二のおかげで変わることができた。成長することができた。
 それにしても、やるじゃないか、浩二。見事なスパイぶりだ。まったく気づかなかったよ。浩二がいちばんスパイに向いていたのかもしれないな。スパイ団のことは、本当にごめん。ぼくは自分のことしか考えられなかったんだ。あまりにも心が狭かったんだ。
 そうやって浩二に心から謝って許してもらいたかった。許してもらえれば涙を流し、それから肩を叩いて笑い合いたかった。大人になった二人で少年時代の苦い思い出を笑い飛ばしたかった。でも、浩二はタイムカプセルを開ける輪の中にはいなかった。それどころか浩二はもうこの世にいない。
 スパイ手帳を握りしめながら、浩二を思い出して、ぼくは涙が止まらなかった。

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