何かに呼ばれた気がする。キッチンの勝手口の窓を開けてみた。誰もいない。気のせいか……、窓を閉めようとした。その時、視界の端に白いものが揺らいだ。小さな白いチューリップが春の陽ざしを浴びて、気持ちよさそうに咲いている。しかも、我が家のフェンスから花の半分が外に出ていた。そこは、近隣住民たちが近道として利用している畑の脇道だ。気づかれず、蹴られたり、踏まれるかもしれない。そのまま咲かせておく方がいいのか、我が家の一輪挿しに飾る方がいいのか。一瞬迷ったが、過保護な選択をしてしまった。
なるべく茎の細胞を壊さないように切り、大きく開いている花びらを守るべく、そっと花瓶にさし、リビングのテーブルに置いた。キッチンに戻ると、茹でかけのパスタが思わぬ出来事のせいで、思った以上に柔らかくなっていた。可愛いチューリップを見ながらランチができるから、ま、いいか……。お皿を手に、リビングのテーブルに戻ると、チューリップは蕾に戻っていた。切られた事に対して無言の抗議をしているか? 突然の環境の変化に戸惑っているのか? いろんな思いが巡る。パスタを食べ終わっても、チューリップは開く気配を感じさせない。そして、その日は午後から「半休」を取得したかのように咲かなかった。
翌朝、気になって朝一番にチューリップのご機嫌を伺った。朝寝坊なのか、まだ拗ねているのか相変わらず閉じたまま。光が足りないのかと、内玄関に移動させる。九時になり、玄関を見た。まだ変化なし。今日は「休暇」か? そんな事を思っていたら、九時半にやや開き始めた。まるで、フレックス勤務。そのままそっとしておいた。
昼になり、今日こそ「お花見ランチ」と花瓶をリビングに移動させる。そそくさと昼食の準備をして、着席。チューリップは機嫌がいいのか大きく開いている。よく見ると、白い花びらの内側に薄い紫色の細い線がある。花びらの内側の中心は濃い紫色。食べる手を止めてしまうぐらい美しく神秘的な姿だ。こんなにじっくり花を観察するのは久方ぶりだ。そして、平日にゆっくりお昼ご飯を食べるのも。
感染症の影響で、自主的にしばらく専業主婦になることを選択した。だが、どこか本当にこれで良かったのか? と自問自答を繰り返していた。そんな時に、突然現れたチューリップ。この家に引っ越して来て間もなく、一度だけ植えたチューリップが十年以上を経て、また咲いた。いや、フルタイムで働き始めてから荒れていた裏庭で、実は毎年、雑草の陰で、球根が芽吹いていたのかもしれない。気づかなかっただけで、他にも多くの事を見逃していたのかもしれないとさえ感じた。
昼食の後片付けをして、リビングに戻ると、またチューリップは閉じていた。「お昼休みいただきます」と言わんばかりの姿に自然に笑みがこぼれる。ゆっくり休めるように、そっと内玄関に戻す。その日も、チューリップは午後から「半休」だった。
翌朝、もっと光が必要なのかと、二階のベランダ近くの窓辺に花瓶を置いてみた。みるみるうちに花を開かせ始める。自由にできていいな……と羨ましく思った。いやいや、そうではない。自由気ままに振舞っているように見えて、環境の変化に敏感に合わせているのだろう。突然、切り取られ、冷たい水に入れられ、太陽の光を直接浴びることができなくなり、風も感じられなくなった。しかし、枯れることなく、与えられた環境の中で必死に生きようとしているのだ。
その姿は現代を生きる人間に重なった。今年に入り、生活スタイルを変えざるを得なくなった人、変えたくても変えられない人。突然の変化にうまく対応できない人。変化に対応しつつも割り切れない思いに悩む人。戸惑いの中、なんとか前を向いて適応していこうとしている多くの人々。他人から見れば、理解しがたい行動に思われても、それは置かれた環境の中で精一杯あがきつつ生きているからなのかもしれない。チューリップのおかげか、穏やかに、やや寛容に世の中を見つめられるようになった自分の心の「変化」に驚く。
その日、光に当たり過ぎたのか、夕方には花びらがシワシワになった。花の命は儚いというが、その通りだった。翌日、花びらがハラハラと落ちた。切らずにそのまま庭に咲かせておいたら、もっと長く咲いていただろうか……。結果はわからない。人生における選択も同じだ。選んだ道が正解かどうかなんて誰にも分からない。分からないが故に、考えながら生きている。それはより良い「変化」となり、「進化」となるのではないだろうか。
早く花を刈った分、球根に栄養が行くと信じたい。来春、より美しい花を咲かせてくれるか楽しみだ。