居合で使う足袋がほころびたので、道着を仕立てて下さった方にお願いして繕って頂いた。いつもながら、期待以上の仕上がりである。
出来合いのごくリーズナブルな足袋なので、修繕の代金を考えれば「新しく買った方が」という意見が妻から出るのは、まあ当然だろう。確かに経済的にはその方が合理的なのだが、ヘソ曲がりな僕は、
同じ金を払うなら、直して使う方を選ぶ――
という判断をする。
まず、この足袋は極端に甲高で幅広な僕の足の形状を憶えてくれている。オーダーメイドの足袋などとても注文できない身では、新しい足袋に一から足の形を教え込むよりも、憶えてくれている足袋を直して使う方が稽古に支障が出ない。
また、僕の身体性や居合での癖によって、どの足袋も同じ部分が傷む。その部分だけの傷みを理由に捨ててしまえばそれまでだが、修繕すればその部分はむしろ強化されるので、その後は大分長持ちする。仮に二足の足袋を使う場合と一足を修繕して使う場合とで、かかる金額と使用期間がおおよそ同じなら、〝使いやすさ〟の点で後者の方が優れている、という判断も出来るのだ。
と、ここまでが妻への説明。実は僕がお金を払って足袋を修繕するのには、別の理由がある。
新型コロナウイルスとの戦いがいつまで続くのか分からないが、その中で社会のシステムだけでなく、我々の志向や感受性が相当変わるだろうと僕は考えている。アフターコロナの世界は、今とは全く別の姿になっているのではないか。
これまでは、「いかに多くの資源をほしいままに使う権限を持っているか」がその人物のステータスを測る主な尺度だった。が、この尺度は通用しなくなるだろう。「資源は有限である」という、これまでの文脈を繰り返したいのではない。コロナ禍によって我々は物理的な生活範囲を縮小せざるを得なくなったが、この経験は逆に「個人の活動範囲の無限拡大を目指さずとも、人間は充分に生きていける」「グローバリズムは、必ずしも人間を豊かにしない」という事を我々に気付かせた。それに伴って、これまでのエンドレスかつアンリミテッドな拡大を志向する原理を疑う視点をももたらした。
これからは、コンパクトになった行動範囲と、他者との直接的な接触機会が少ない環境の中で、如何に望ましい在り方を個々にアレンジしていくか、というのが我々の主な関心となるだろう。言い換えれば、人間の〝自己実現〟のモノサシが、「限られた資源や空間を用いて、いかに多くの満足や幸福(≠利便性)を生み出せるか」に変わっていく。身体的な行動範囲の縮小と、SNSなどのヴァーチャル空間の拡大・強化という逆方向のベクトルの中でバランスを保とうとすれば、必然的にそうした尺度に行き着くものと僕は予想する。
そうなれば、資源やモノの価値は単純な〝量〟や〝質〟あるいは〝利便性〟ではなく、それを活用する〝アイデア〟や、そこから満足や幸福を導く〝感受性〟によって決定されていくだろう。
話は戻るが、足袋が傷んだのは、技量はともかく僕が一生懸命稽古したからだ。その痕跡が刻まれた足袋を捨ててしまうのと修繕するのとでは、己の努力への向き合い方や捉え方が変わってくる。後者の態度に自分の努力への肯定とリスペクトが認められるなら、足袋の修繕には、僕の幸福を考える上で見逃せない何事かがあるだろうと思うのだ。
また、僕の足袋がほころびる箇所と、指導者や稽古仲間の足袋がほころびる箇所が違う場合、その在りようから自分の特性や修行の進度が分ったりもする。そのようにして今、ここの自分を知ることは、反省だけでなく〝次の自分〟への期待や新たなモチベーションを得るきっかけにもなるだろう。これも、「傷んだから捨てる」という発想からは決して生まれない。
さらに、足袋のように直接身に着けるものの修繕は、疑似的・間接的な身体のケアとイメージが繋がりやすい。足袋の生産者のイメージはなかなか出来ないが、繕ってくれる方には、ごく自然な身体感覚で想いを繋げることが出来る。この想いとは、もちろん感謝だ。オーダーメイドではないので、足袋の生産者は使用者たる僕を想定しないだろうが、繕って下さる方は、僕個人の身体性や努力、現在の在りようと一対一で向き合う。こうした個別性と身体性をベースとしたコミュニケーションは、代金という金銭のやり取りの先に、ずっと豊かな何かを持つことが出来る。
今後、我々の商品との関係は、〝ほしいままに使う〟ではなく、〝パートナーとして一緒に何かを実現する〟対象に変わっていくだろう。それに伴って、「直してでも使いたいものであるかどうか」が、選ぶ上での重要な基準の一つとなるのではないか。
この足袋が、新たな時代の感受性を占うささやかな一例だったら面白いと思う。人とモノとの幸福な関係がこんな具合に変わるなら、未来は決して暗くはあるまい。