大賞

住職からの宿題
東京都 丸山 牧夫まるやま まきお

おくちょう羽衰はねおとろえて 菩提心ぼだいしん
 この句の意味を問われて必死に考えていた時期がある。
 今から30年以上前、私は損害保険会社の代理店研修生だった。脱サラをして夢を抱いて入社したものの、見ず知らずの他人から契約を取る大変さを身に染みて感じた頃だった。研修期間は3年だが6ヶ月に一度査定と称し、振り分けが行われた。一定程度の成績が上がらないと移行できない。要はクビになる仕組みで、それを乗り越えるのは容易ではなかった。数字が達成できなければ誰もがクビになる。よほど営業力があるか企画する力がないと残れなかった。
 私は1年を過ぎた頃からこの会社に残れるのか不安を感じ始めていた。どのように工夫をして営業しても、自分の力ではせいぜい会社の望む半分の数字しか行かないのだ。営業が下手へたといってしまえばそれに尽きるのだが、幼い子供を3人抱え生きていかなくてはならず、何をどのようにして良いのかわからずに悩んでいた。風呂に入る時もあといくら契約を上げれば生き残れるか、何度も数を数え直した記憶がある。
 やがてあと数ヶ月で移行のための査定が近づいた頃だ。営業成績は低迷し、もうクビの一歩手前だった。やむなく研修所で過去の企画集を眺めていた。だが作り方の参考になっても成績を上げるということには向いてなかった。あきらめて閉じようとした時、 ファイルに重なって一枚の企画書のコピーがあるのに気がついた。「永久保険のお勧め」という耳慣れない活字だった。
 これを見た瞬間、これで生き残れるかもしれないと感じた。マーケットはお寺で、 積立火災保険の案内だった。まだ金利が高い頃で10年契約をすると元本がんぽんが戻り、利息で修理代がまかなえるという内容だった。この企画書をヒントに数日間かけて提案書を作った。東京の寺500ヵ所に手紙を送った。単なる売込みではないと感じてもらえるように封筒の宛名あてなを筆で書いた。「千三つ」とは営業でよく使われる言葉だが、企画が通るのは千に3つという確率を示している。500通のDMの返事は1通。その時のことははっきり覚えている。その葉書のおかげで今も仕事を続けられているのだから。ともかく1通が世田谷のお寺から帰って来た。
 掲題けいだいの句は面談に行った折、見積もりを出した時に住職から質問されたものだ。
「内容は了承した。 お金は数ヶ月後。ただこの句の意味が分からないので、わかったら契約をしよう」と話された。有名な句ならば、いずれ調べれば分かるだろう。それが絶対の条件なのか分からないが何とかなるだろうと高をくくった気持ちでいた。
 句を調べた。先輩や会社の上司に聞いた。しかし誰に聞いても分からなかった。図書館に行っても無駄だった。 宿題ができていない生徒のような気持ちで何日も過ごした。もう返事をしないと解消されるに違いないと感じた頃のことだ。
 神田川を眺めながら ぼーっとしていた。この数ヶ月間必死にもがいて歩き回った。寺ばかりでなく多くの事務所や会社も訪問した。寺の提案もうまくいかないかもしれない。出された宿題は難問で手掛かりすらない。えた気持ちで橋の欄干らんかんにもたれて流れを眺めていた。泣きたい気持ちだった。クビになった後のことが浮かんだ。働いていけるのか不安だった。しばらくすると物のこすれれる音がした。小さな音だが続いていた。見回すとゴミ袋を猫が引っいている。小さな捨て猫だ。うまくいかない自分の身の上と重なり近しく感じた。辺りの店からえさになりそうなものを買ってきて与えた。
 会社に帰って住職宛に手紙を書いた。せっかくの課題も解決できないこと、調べたが分からなかったこと。自分はしっかりとした営業マンになりたかったがなれないこと、今神田川のたもとで捨て猫に餌を与えていること、句の説明ができないが何かのきっかけで変化したことではないのかなど。しばらくして住職より正式に契約するむねの電話が入った。
 契約高はとても大きく、昨日移行できないと悩んでいた人間が、東京都で一番の契約高になった。あっという間に自分のいる場所が変わっていった。注目されて表彰された。ねたまれたりして嫌な思いも味わった。められて少し得意にもなった。けれど、どこかで住職の句が気になっていた。どうして自分にこの機会がやって来たのだろう。
 契約時に高齢の住職から句の意味を明かされた。栄華が過ぎた時に人は仏の慈悲の心を持つ。武士をやめて寺をつくった者の晩年の句だとのこと。この一言に仏の教えが入っていると。私の一番驚いたことは、見ず知らずの者を信用して育てようとしている人がいま目の前にいることだった。困り果てている者に機会を与える人がいることだった。私にはそのことが何とも不思議だった。住職はその後亡くなった。時にどのように生きたら良いのかと悩む。この言葉を思い出して励まされている。

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