一般の部

佳作

女偏(おんなへん)からの旅立ち
岡山県備前市 片山 ひとみ(かたやま ひとみ)(56)

 「お若い先生には、私の悔しい気持ちなんか分かりませんよ」
 吐き捨てるように放った瞬間、両太腿(りょうふともも)に置いた拳(こぶし)は、内側の肉に爪跡(つめあと)が残るほど力が入った。診察室に気まずい空気が流れる。
「おそらく、今までのようには走れません」
 先ほど、男性医師が私から目を反らせて告げた言葉が、胸の中で旋回(せんかい)する。
「重い物は持たない、階段は使わずエスカレーターやエレベーターで、ヒールの靴は履(は)かない、スポーツはもちろん、スクワットなど膝(ひざ)の屈伸運動は厳禁、極力歩かない」次々に出された指示も、頭を巡(めぐ)る。
 二十九歳の私の娘と同年代に映る整形外科医は、眼鏡の奥の細い目を見開き、反抗心むき出しの私に、ゆっくりと言った。
「膝の半月板は一度裂けると、二度と元には戻りません。これ以上悪化しないよう、指示は守ってもらわないと。歩けなくなります」
 驚きと悲しさとがごちゃ混ぜになり、うなだれたままの私に看護師が肩を貸し、廊下へ連れ出した。左膝に巻かれた、ごつい固定ベルトは、膝の曲がりを阻害し歩きづらい。
 左膝に異常を覚えたのは、二ヶ月ほど前だった。それでも、二十年間続けている毎朝の山へのウォーキング四キロの道程と、週一回のアクアビクスやジムは休まず出かけていた。
 単なる疲れと思っていた膝周りの鈍痛(どんつう)は、一向に治らない。ウォーキング仲間たちから、「膝の水が原因よ。抜いてもらえばたちまち楽よ」と勧められ、気軽に受けた診察だった。
 思いがけない診断結果に、帰宅して泣いた。
 主婦の傍(かたわ)ら、司会の仕事をする際に履くヒールの高い靴を下駄箱から次々に引き摺(ず)り出し、「もう、履けないんだ!」と泣き叫びながら玄関タイルに投げつけた。ヒールは欠け、打ちつけられるたび悲鳴を上げてパンプスは転がった。ウォーキングのシャツもズボンも帽子も、日よけ手袋も、「見たくない」と、ゴミ袋に押し込み、アクアビクスの水着も、ジム着も「着る日は来ない」と全て捨てた。
 くすぶる気持ちは、外にも向けられた。
 左足を引きずるように生活する私の目に、颯爽(さっそう)と歩く女性の姿は、羨ましさや嫉妬(しっと)以外の何物でもなかった。スローテンポでしか歩けない私を「邪魔だ」とばかり、舌打ちや、体を当てたりして行く人に対しての苛立(いらだ)ち。
 スーパーに行けば、カートにすがらなければ、ろくろく買い物もできなくなった自分が店の鏡に映るたび、スポーツに明け暮れた頃が蘇(よみがえ)る。唇を噛(か)み締め俯(うつむ)いてカートを押した。
 次第に落ちてゆく筋力。
 心までが筋力を失い、地べたへ落ちてゆくようだった。

「まあ、ひさしぶり。覚えとる?」
 整形外科の待合ベンチの私の横に、よろよろと腰を下ろした女性が不意に声をかけた。
 前回ひどい言葉を医師にぶつけた私は、どんな顔で診察室へ入れば良いのか悩んでいた。
 白髪(しらが)混じりのおかっぱ頭、地味な紺色シャツにグレーのズボン。年齢五十歳過ぎか。
「髪が白くなったから、わからんかな?私、販売の仕事をしていて、時々会ってたんよ」
 あ、美容部員の方だと思い出した。
 だが、容貌(ようぼう)が明らかに異なる。以前、デパートの化粧品売り場に立っていた頃は、栗色のロングヘアを色々アレンジし、お化粧も濃く、体に沿った黒いスーツに高いヒールのパンプスを履き、雑誌モデルのようだった。
「仕事は、怪我がきっかけでやめたんよ」
 私があまりにも彼女の髪を見ていたからか、「二十代から若白髪。美容部員だから綺麗にって染め続けて。でも馬鹿馬鹿しくなって」と、白髪混じりの頭を撫(な)でながら続けた。
「店の階段から落ちて肋骨(ろっこつ)と足を折ってな、松葉杖(まつばづえ)で無理して白髪染めを買いに行く私に、夫が言ったんよ。髪と体とどちらが大切か」
 彼女は、ふっと天井を見上げて呟(つぶや)いた。
「私な、神様に一つ一つ返しているんよ」
 「返す?」と、私は首を傾(かし)げた。
「生まれてから、歩くこと、喋(しゃべ)ること、見ること、感じること、たくさん神様から授かってきたよな。感謝と共に返してゆくんよ。歳を重ねて、体の能力や器官が失われると嘆くんじゃなくて、返しているって考えるようにしているんよ。本来の自分に戻るんだって」
 戸惑うような表情を向ける私に、彼女は、「嫉(ねた)み、妬(や)く。悔しいけど、女偏よな。誰かと比較したり、取り戻せない過去に溜息(ためいき)ついたり。女性だからこそ、やめたんよ。私を生きる。怪我を機に新たな旅立ちをしたんよ」と、満面の笑顔で見つめ返してきた。
 彼女はデパートで見てきた人工的な造形美より、内側から滲(にじ)み出るゆったりと穏やかな美しさに包まれ神々(こうごう)しくも映った。心で叫ぶ。
「女偏の嫉妬から解放され私らしく生きたい。新たに旅立ちたい。医師に素直に謝ろう」
 診察室から、私の名前を呼ぶ声がした。

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