優秀賞

生きてるだけで◎
愛知県豊橋市 堀 倭歌ほり わか(57)

 ある日のこと、整形外科のリハビリ治療を終え待合室で会計を待っていると、みんなの視線を感じ、クスクス笑う声がした。しかし、私は明日の予約が取れるかどうか気になっていたので、名前が呼ばれるのを今か今かと待っていた。
 みんなの視線とクスクス笑いの正体を知ることになったのは、私が会計も済ませ帰り支度をしている時だった。
 山さんがきて「背中にこんなものがついていたよ」と紙を渡された。そこには「山さんが好きです」と書いてあった。
「やられたあ」
 叩こうとする私から、山さんはすばやく逃げて行った。山さんは七十代の男性とは思えないいたずら好きである。
 いたずらされたのは私だけではない。持ち物や靴を隠されたり、よろけたふりをして看護師さんに抱きつくなど日常茶飯事。被害者は後を絶たない。
 それでも山さんは人気者で、悪く言う人はひとりもいなかった。
 その山さんが亡くなったと風のうわさで聞いた。
 山さんとは、私が交通事故の後遺症で週に四、五日通院していた半年余りの付き合いだったが、私にとっては忘れられない人である。
 当時の私は痛みとしびれに悩まされて、改善しない症状に憂鬱ゆううつな思いで「後遺障害申請」のために半ばしかたなく通院していた。
 しかし、山さんは私の顔を見ると決まって、笑顔で「こっちこっち」と席を空けてくれたり、帰りには「またのお越しをお待ちしています」などと笑わせてくれた。
 私の暗い表情を見ると、内緒話のように耳元で「生きてるだけで」というと、両手で大きな「まる」を作った。山さんは続ける。
「○じゃないよ。頭があるだろう、◎だよ」
 正直、あの頃の私はそんな言葉を言われても、そうだなとは思えなかった。が、山さんはそんな私の思いなどお構いなしに関わってくる。いつものいたずらとセットで繰り返す。
 そんな山さんのお陰で、半年という通院期間はあっという間に過ぎた。その後「後遺障害」は認められ、保険金額も少しではあるが上乗せしてもうらうことができた。
 そして、最後の診察日に治療終了の報告と「いろいろありがとうございました」と山さんに言いに行くと、側にきて小声でまたあの「生きてるだけで◎」そして、私を見送る時に大きな声で「また来てね」と笑顔で手を振ってくれた。
 私も大きな声で「また」と笑顔で手を振った。間違いなく山さんは、私に元気と笑顔をくれたのだ。
 そのお陰で、病院治療終了後も、別の治療に積極的に取り組み前向きに生活していた。
 そんな時の訃報ふほうである。
 その日の帰り道は、あふれる涙を抑えることができなかった。
 山さんのさまざまな光景が思い起こされては消え、また思い起こされては消え止まることはなかった。
 想えば、私は山さんのことは何も知らない。一人暮らしであることは聞いていたが、どこに住んでいたのか。以前はどんな仕事をしていたのか。全く知らない。ただ、山さんの周りにはいつも人が集まっていた。
 山さんは私だけではなく、たくさんの人に元気と笑顔を与え続けたのだろう。
 山さんの「生きてるだけで◎」。あの言葉は、悲しみを倍増させた。
 暗い表情の私に、山さんはいつも「生きてるだけでいいよ」と言っていたように思える。
 あのころの私は、自分のことだけで精一杯で、山さんの優しさに気づけなかった。
 なぜ山さんはあそこまでできたのだろうか。今となっては知るよしもないが、山さんが人の心の痛みに敏感であったことは間違いない。それは、山さんが人一倍苦しい思い悲しい思いをしたからかもしれない。
 私は今でも左半身の痛みとしびれに悩まされ治療を続けているが「生きてるだけで◎」、そう心から思っている。
 山さんの想いを受け継いで、あの時の私のような人に「生きてるだけで◎」って、私も精一杯伝えていこう。たとえ、伝わる先はわずかでも……。
 今は亡き山さんに心の中で誓った。
 思い出の中の山さんは決まって笑顔だ。その笑顔は、「悲しんでる時間なんてないよ」「いつも笑顔でいて欲しいよ」、そう私に語りかけているようだった。私は悲しみに一旦ふたをした。
 山さんに出会えたことは、私の人生においてかけがえのない宝物である。そして、間違いなくあの時も今も私は、
「山さんが好きです、大好きです」

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