佳作

美しい声
埼玉県春日部市 髙野 千恵子たかの ちえこ(56)

 子供の頃、千葉の母の実家にいる伯父が苦手で仕方なかった。いつもしかめ面で、愛想がない。しかし、それよりもっと不得手に感じていたのは、伯父の独特の声と話し方だ。
 くぐもって不明瞭なため聞き取りづらい上に、抑揚よくようの調子も普通と少々異なっていたので、内容を理解するのが難しい。しかも、やたら声が大きい。大声は例の渋面しぶつらと相まって、苛立いらだちに見えた。そのため、伯父が近づいてくるたび、怒られるのじゃないかと、特に悪さの心当たりが無くてもうろたえた。実際、伯父と伯母が怒鳴り合うのをよく目にした事も、伯父の悪印象を強める要因になった。
 伯父は、聴覚障がい者だった。幼い頃、誤って囲炉裏の中に落ち、燠火おきびにかけた鉄鍋の、熱い味噌汁を耳にかけてしまったのが原因だと母から聞いた。そして伯父は、私が最初に出会った、障がいを持った人でもあった。
 小学生になると、毎年、夏休みに父の車で母の実家を訪ね、数日滞在するようになった。だが、滞留時間が長くなっても、伯父への苦手意識は一向に解消されず、到着直後の挨拶さえが、億劫おっくうの種だった。
「さあ、早く伯父さんに挨拶をしておいで」
 母に強くうながされ、出迎えてくれた祖父母や伯母、いとこから離れ、私は渋々といった具合で、伯父の所へと向かう。伯父は決まって台所の板の間に胡坐あぐらをかき、農作業の合間の遅い昼食を一人で取っていた。赤黒く陽に焼けたいかつい顔や、太い上腕とぶ厚い胸板は赤鬼のように見えて、益々気が滅入った。
「伯父さん、こんにちは。遊びに来ました」
 そうおずおずと言うと、伯父はにこりともせず、「来たか」と一言、例の特徴のある大きな声で返してくる。返事を聞くと、私は伯父にぴょこんと頭を下げ、きびすを返し、一目散に皆のもとに戻って行った。
 六年生の夏休み。両親の都合がつかず、私は電車で一人、母の実家に行く事になった。
「いい? 最寄り駅からでもかなりあるから、必ずタクシーに乗るのよ」
「わかったよ、もう。行ってきまあす」
 リュックを背負い、手土産の紙袋を提げて玄関を出ると、母の念押しにウンザリしたのも忘れ、初めての一人旅に、胸を弾ませた。
 順調で楽しい一人旅はしかし、最寄り駅を降りてから一変した。タクシーがいない。三十分待ったが、ついにタクシーは現れなかった。
――ええい、歩いちゃえ。大丈夫、道だって覚えている自信があるし、それに車で十分の距離も、お母さんが言うほど大した事ないや。
 楽観して歩き出したが、そのしっぺ返しはすぐ現れた。結局道はうろ覚えで、岐路きろを迷った挙句あげく何度も間違え、その度引き返さねばならない、散々な有様となった。右往左往に、やがて体力も気力もえ、暑さにもやられ、道半ばでとうとう動けなくなってしまった。
――ああ、タクシーを待っていればよかった。
 助けを求めたくても、炎天の雑木林の道は、誰一人通りかかる者も無く、私は自分の軽率さを激しく後悔し、声を上げ泣き出していた。
 泣くのにも疲れ、ぼんやり座っていると、せみの声に混じって、ごおんごおんといううねり音がかすかに耳に届いた。音の方に目を凝らすと、遙か先から耕運機が、すごい速度でこちらに走って来る。嬉しさに、さっきまでの疲れは吹き飛び、耕運機に向かって駆け出した。
「千恵子お!」
 耕運機との距離が縮まると、走行音にまぎれ、くぐもった声が、私の名を呼ぶのが聞こえた。
「伯父さあん!」
 破れかけていた紙袋が裂け、土産が転げたのも構わず、伯父の声に向かって走り続けた。
 やっと耕運機に取りすがると、一気に力が抜けた。私はその場にへたり込むと、口もきけず、うつむいて、ただぜいぜいとあえいでいた。
「いがったな(良かったな)」
 伯父の声が頭上に降った。いつもの声なのに、これまでと全く違った感覚を受け、おやっと思った。驚き見上げると、こちらも普段と変わらぬ渋面の伯父が、私を見下ろしていた。伯父は何も変わりない。だが私はこの時、初めて、真の伯父の声を聞き取った気がした。伯父の声は、安堵あんどと慈愛に満ちて美しい。伯父の障害の独特にばかり気を取られ、本当はこんなにも豊かな情愛のあふれる、美しい声だということを、私は今まで聞き逃していた。
「伯父さん、本当にごめんなさい」
 伯父は頷くと、「乗れ」と言って顎をしゃくり、後ろの荷台を指し示した。私のごめんなさいの二つの意味を、どうかわかってもらえますように。耕運機を操縦する伯父の後姿を見つめながら、そんなことを願っていた。
 到着予定の時間をとっくに過ぎたのに、現れない私を一番心配したのは、伯父だったと祖母から聞いた。居ても立ってもいられない様子で、耕運機で探し回ったのだという。
 本当に大切なものは、ひそんでいる。心と耳を澄まさなければ、美しい声は聞こえないことを、伯父の声が教えてくれた。


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